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通信講座部|転掌式八卦掌基本講座科・護身術通信講座科始動

通信講座部は、再び、「転掌式八卦掌基本講座科」と「護身術通信講座科」でもって再始動する。

ここで使用するテキストは、キンドル書籍における「転掌式八卦掌」の内容を通信講座用に分かりやすく改変したものである。電子書籍では、動画を使用することができないため、写真・図を多用した。そこに、動画付きで解説をしたものが通信講座のテキストである。

通信講座部|転掌式八卦掌の通信講座部

そもそも通信講座は、通信講座だけで達人となるものではない。人と人が思惑と思惑をぶつけて戦う技術である以上、人が人とぶつかりあって練習する必要がどうしてもある。しかし、だからといって、一人練習が無意味なはずもない。いにしえの達人は、対人練習の時間をはるかに超える一人練習時間によって、達人となった。

私の練習時間の比率からしても、5%の対人練習、95%の対人想定練習、である。対人想定練習とは一人練習時間である。中国拳法修行者にとって、その未来を左右する、極めて大きく、かつそのほとんどを占める、大切な時間である。

通信講座では、本当にたった一人で練習するだけ、では得られない「一人練習の仕方」を指導する。型を指導するだけなら、ホームぺージ上に写真と解説をのせるだけでもなんとかなるからである。通信講座では、練習の仕方、意識の持ち方を、その人の動きを見たうえで添削にて指示・指導するから、踏みこんだ指導ができるのだ。

確かに、口頭で、直接、その動きをもって、実際に技を受けてもらうのが最高であろう。しかしそんなことを、遠隔地在住者に言っても始まらないのである。近所に道場がない者にとって、大きな味方となるのは間違いない。正確な一歩を踏み出すうえで心強い味方となる。

では、転掌式八卦掌は、本当に使うことができるものか?使うことができるに決まっている。使うことができないものなら、これほどまで時間をかけない。人生は一度きりだ、そんな無駄なことはしない。

ハッキリ断言しよう。しんしに練習すれば、当然使うことができるものである。でなければ、清朝末期の乱れきったご時世のなかで、護衛術として成り立たないからである。人が人をあやめることに容赦がなかった時代の護衛武術である。生易しい体系ではない。

この国の中国武術愛好家らは、独学者が多いくせに、独学・独習に対してたいそう厳しい。独学では100%無理、などと、まるで武術の神様にでもなったかのような発言を、平気でする。こんな無責任な意見に惑わされる必要はまったくない。

少し先生に就いただけの中途半端者(言っている内容からすぐわかる)に、独学が無意味であると、断言できるはずもない。一通り学びきってもいないのだから。やたらと有名先生に習うこと、有名先生に特別に気をかけてもらうことにこだわり、映画やアニメ世界におけるフィクションを、実際の戦だと思う人間が信じられないくらいに多い。

でなければ、暇つぶし用に作られた、現実と作り物を混在した「これぞ実戦だ」動画が、あそこまで再生数を上げないだろう。あれはフィクションである。

通信講座部のバナー

私が生涯をかけて追い求めていいと考えた技法は、全くの無名の中国人青年から習ったものである。技は3つしかない。その3つの中に入っている身体操作法をもって、4つの武器を使いこなせるようになることをもって、修行を一通り終わらせる。国内愛好家からすれば、無名かつ行方冨不明の先生の、たった3つしかない技法など、とるに足らないものであろう。

しかし私は、絶対的な自信がある。根拠は?

それは、誰にも負けないくらい、練習してし抜いて、それでも、伝えられた技法に矛盾を感じず、かついまだに完璧にできないくらい奥が深いものであるから。

底の浅い、付け焼刃の技法・技術体系であったなら、トータル練習総時間3万8,000以上の時間をもってすれば、あっという間に極めているであろう。でも、この積み重ねをもってしても、未だに極めた、完璧だと思うことができない。まだまだ先に行ける、と感じてしまう(嬉しいことでもあるが)。

この実感こそが、転掌式の原初八卦掌が、生涯をかえて追い求める価値のある技術であることのあかしとなる。シンプルイズベストとは、よく言ったものである。

会ったこともないような、見たこともないような、中国人先生の名が付された権威性だけで判断するよりも、はるかに「確か」さがあると感じている。

その自信の上になりたった技術を、再現・再興した人間(代表・水野)が自ら直接、遠隔地学習者に向けて示す。独りで練習している者・今すぐ護身技術を理解したい者には大きな味方となるのは間違いない。

とりあえず、9月1日、富山本科だ。上記イラスト中の、遠隔地生として学習し、筆頭門弟になった子に、協力してもらったお礼を言わねば。彼女は、通信講座部の第一番の門弟となり、今は水式門最強の筆頭門弟となった。

北陸富山本科後、通信講座部の再始動に向け、北陸富山本部で、動き出す。私はすぐに動き出す。

あなたも、君も、まず動いてごらん。きっと違った結果が生まれるから。

通信講座部|転掌式八卦掌の通信講座部

八卦掌水式門富山本科イメージ

ジェダイ剣術とまったく異なる転掌刀術

映画「スターウォーズ」は、以前の作品に比べ、ますますジェダイの力や剣術がクローズアップされるようになった。

映画本編にとどまらず、多くのスピンオフ作品が生まれ、一部を除き、ジェダイの力にクローズアップされた作品がどんどん生まれている。

Youtubeでは、ジェダイの剣術を解説するものも多く、その非現実的な技法が、さも現実的に存在するかのように紹介されている。フィクションをフィクションとして終わらせず、フィクションが独り歩きをして、そのまま、現実となっている。

〇〇トで六十四掌を知った見学者が、実際の六十四掌を見た際、「もっとこうした方が、〇ジのように威力が出せますよ」と言ってきたときは、本当にあきれてしまった。こういうのが本当に増えた。

転掌刀術も、刀(実際は棒)を縦横無尽に振って、敵と相対するものである。しかしその内容は、全く異なる。

マスター・ヨーダー?

ライトセーバーという、自分をも殺めかねない危険極まりない武器が、多くのスターウォーズファン、いや、ジェダイファンにとって魅力的なのだと思う。

ライトセーバーを持つことを許され、かつそれを操る技術を持っている点、そして操ることに関わるジェダイ内の様々な伝統などが、扱う者の特別感を際立たせる。それに憧れ、その華麗な技法のみを追い求め多くのファンがレプリカを買い、ここで一大ビジネスが行われている。ここがまず違う。

転掌刀術では、刀に依存する傾向がない。ジェダイは、その者自身が持つライトセーバーに、代替品不可能の意識を感じる。だから、(ジェダイファンは)それぞれのジェダイの色にこだわったり、持ち手の形状にこだわりが出てくる。

転掌刀にとってのライトセーバーは、そこらへんに転がっている棒っきれである。なんでも良いのだ。切り札的な伝説的武器ではない。何の魔力もない。

ライトセーバーと違って優れている点は、日頃持ち歩ていなくても、そこらに転がっている可能性がある点である。特別な能力がなくとも、棒操技術さえ知っていれば、戦うことができるのである。

現代日本では、武器の所持は禁止されている。護身グッズであり、かつ銃刀法の規制対象とならない棒を持っていても、警察にかかると、不審者となる。

ライトセーバーによく似ている?現実的な形態武器たる特殊警棒は、警察に職務質問された際、突っ込まれ没収される可能性のある、やっかいな護身具なのである。気軽な武器ではないのだ。

転掌成立時の清朝末期は、国内が乱れていたけれど、庶民は当然、本当の刀を持つことはなかった。許されなかったから。庶民が身を守るうえで、伝説的武器などはいざという時使うことができない、頼りにならない・あてにならないシロモノなのである。

そうなると、本当に実戦を考えている庶民武術家は、練習でも刀でなど練習しない。棒である。それどころか、刀術を、棒操術に特化させたりする(斬る・刺すではなく、叩く・ぶつけるをメインの技術体系にする、ということ)。

弊門でも、模造刀は練習で使わない。木刀ですら使わない。使うのは棒である。おおよそ、身長160センチ以下が110センチ・160センチ以上が、120センチの棒を使う。

そしてその棒は、必ず移動しながら扱う。ここもまったく違う。

ジェダイの戦闘シーンを見ていると、前敵攻防である。目まぐるしく移動しているが、ほぼその場にとどまり、変則的な攻撃パターンで鮮やかに戦っている。

多少の移動は見られるが、基本的に敵の眼前にとどまり、テクニックで防ぎ、テクニックで攻撃するスタイルである。その動きは、演武における中国刀術に似たところがある(特に、背身刀部分)。

その戦闘スタイルは、フォース・先天的身体能力・専門機関での英才教育で刺させられるる。つまり、選ばれしエリートの戦闘スタイルである。

さいごに、ここが決定的に違うのである。転掌刀術は、身体的資源不利者の、なんとか生き残るためにの生存技法なのであるから。だれでもできるのである。

しかし、誰でもできる技法で他者を圧倒するためには、誰でも出来る技法を、徹底的に繰り返し、誰でもできる技法を、磨きぬかないと、圧倒できない。だれでもできる技法だから、習い始めの人間でも、ある程度できる。ある程度できるシンプルで簡単なものであるから、ほとんどの人間はすぐ飽きてしまい、洗練される遥か手前で止めてしまう。そこに、繰り返す者・突きつめる者・追い求め続ける者の勝機が生まれる。

そして夢があることに、磨き抜かれたシンプルで誰でも出来る技法は、十分、一部の選ばれしエリートしかできない技に対抗できるのだ

八卦掌水式門富山本科イメージ

女性護身術科は、囮護衛武術の一定時間生存技法を伝承する

2024年10月5日(土)、愛知本部愛知教室に続き、北陸本部においても、富山教室として、女性護身術科を開催します。

本日は、八卦掌第7世の一人、修行を一通り終えた者の一人として、女性護身術科について触れたいと思います。

※弊門では、女性護身術科に関する一切の名称をすべて仮称とし、術科生の写真・動画も例外なく掲載せず、個人を特定できないイラストとします。インターネット上に画像・名称が流出することを、大きな危険と捉えているからです。ご了承ください。

富山において女性護身術科に対する需要があるか否かは、正直、開催してみないと分かりません。近代八卦全盛の時代です。それ以外は、亜流などと揶揄されるのを肌で感じてきました。

よって、水式門では、10月5日(土)・11月2日(土)・11月30日(土)において、試験的な意味もこめて女性護身術科を開催していきます。

女性護身術科について、一人でも有志が駆け付けるならば、弊門代表・水野は、転掌式八卦掌の清末囮護衛の技術をお伝えします。師は昔より、利で動く人ではありません。私は指導を受けることで、それを強く感じてきました。

そして、今から以下で触れますが、弊門女性護身術科では、指導者が現在の格闘技に合わせた「護身術化のカスタマイズ」はしていません。

代表・水野が、清朝末期護衛武術であった転掌式八卦掌を、伝えられたままに、伝承する場です。よって女性護身術科は、護身教室ではなく、れっきとした中国拳法伝統門教場となります。ご理解ください。私自身も、小さい頃からずっと、そのように言われて習ってきたものです。

女性護身術科詳細

題名でも触れましたが、転掌式八卦掌は、護身術ではなく、清朝末期の宦官(かんがん)が使用した護衛術となります。

宦官とは、清朝後宮内で王族や王族寵姫らの身の回りの世話をするために、後宮内にとどまることを許された男性官吏です。血統に疑義を生じさせる一大事を避けるため、彼らはすべて、去勢されていました。術後の処理が不完全な時代です。身体はホルモンバランスが崩れ、排泄機能の低下も相まって、身体が貧弱となる傾向にあったのです。去勢手術による感染症等で、命を落とす者もいたほどです。

彼らは、通常の、武術を修めた男性に比べると明らかに身体的資源不利者(以下「弱者」と呼ぶ)でありました。

創始者が宦官であり、かつ彼が宮中内拳法として採用されることをもくろんで創始した武術であるため、強者の力とぶつからない、弱者使用前提の、徹底した移動遊撃戦の武術となりました。

弊門女性護身術科では、伝承の内容を「護身術化」するなどのカスタマイズ指導はしません。すでに弱者使用前提の武術として成立したものであるため、カスタマイズする必要が無いのです。清朝末期当時の、囮護衛の技術をそのままに伝えることができるのです。

通常の護衛術と違う点は、直接倒すことを主としないことです。攻防は、自分の身体を後ろに下げ、常に我の身体(肩)を入れながら、我に伸びてくる敵の攻撃手を、後ろに下がって外(もしくば内)に払いながら、いなして防いでいきます。

いなし防ぐ過程で、敵の横を通り過ぎる「機会」に、スッと手を出し、頸部急所を打ち抜きます。ここで注意してもらいたいのは、「機会」という言葉です。

積極的に自分から近づいて攻撃するのではありません。移動遊撃戦の過程の中で、転身や揺身行動の中で敵の近くを通る際、間合いがあった時にのみ、手を出すのです。これは、何度も者を打つ練習をしたり、師自身に襲ってもらう中でつかむ感覚です。

移動遊撃戦の渦中では、敵が多人数である場合も想定されるので、振り向き様に敵が現れる状況も八卦掌は想定しています。そこで移動しながらの電撃攻撃を加え、敵を殺傷します。

繰り返しますが、転掌式八卦掌は、護衛術であるため、斜め後方スライドによる対敵行動ばかりをしていると、敵に「攻撃の意図はない」と見抜かれ、敵はその攻撃を、襲うべき要人に向けることになります。これでは、護衛術が求められていた宮中内では、御用武術として採用されませんね。

よって、私たちは後方スライドしてかわしながら、振り向き様に、その場にいる敵に対し、威力のある攻撃をする必要があるのです。そうすることで、敵は要人を安心して攻撃することができなくなるのです。

「(この邪魔な宦官を)片付けてから襲おう」と考え、要人が襲われるまでの時間を引き延ばすことにつながるのです。

この「片付けてから襲おう」の段階で、鍛えぬいた移動遊撃戦を展開し、出来る限りの長き時間自分に攻撃の目を向けさせるのです。ここで囮になるのです。この囮としての護衛行動が時間稼ぎとなり、味方の救援まで持ちこたえ、王族を守ります。

しかしこの護衛法では、(相手が有利である点からも)衛者は命を落とすことも考えられます。しかし当時の、満州民族支配社会の中では、落命も名誉につながったです。

女性は、将来誰か(我が子や家族など)を愛しいつくしむ立場になりやすく、かつ、男性よりも相対的に、強者の暴力にさらされやすい立場にあります。

水式門における女性護身術科では、この「移動遊撃戦」をしっかりと伝承させていきます。私は女性の中では割と身体が大きい方でしたが、高校にあがるにつれ、男性と女性の体格差・筋力差を実感し、一層、転掌技法・術理の合理性を知ったものです。

もしあなたが、護身というものを真剣に考えるならば、映画やアニメのフィクションにとらわれず、現実的目線で進路を決してください。北陸の女性有志は、2024年10月5日(土)に、ふるってご参加くださいませ。

女性護身術科詳細

八卦掌水式門富山本科イメージ

教室にとどまらないため「単招式」をやるんだよ

八卦掌水式門の『最低限の時間で仕上げる八卦掌原型「転掌」式弱者専用護身術』では、単招式をとりあげてない。時間がない、そして、当面重要でない、からである。

しかし、いじめ護身部|辛いいじめと戦う護衛武術「八卦掌」護身術では、そうはいかない。必要だから、そこに単招式の指導が加わる。専用の動画まで、作成した。

なぜ必要なのか、それは、狭い教室から抜け出すため。その狭い、誰も助けてくれない、君にとって不利な場所から、その身を離脱させるために、単招式が必要なのである。

ある一つの戦いにおいて、指導している4つの単招式すべてを使う必要があるわけではない。しかし4つとも知っておくと、前方向に現れ、君が自由な地に移動する際に邪魔をする敵を、いかようにもやりすごすことができる。

電撃的におそって、ひるんだすきに、離脱する。実際の戦争・戦いにおいては、「血路をひらく」ともいう。

古来の戦争では、取り囲まれた部隊が、敵の一面に強襲を敢行し、その部分の敵を倒して包囲網に穴をあけ、そこから敵包囲網外へ突破移動することが行われた。

もちろん、いじめの戦いでは、取り囲んだ同級生の命をおびやかすことなど、あってはならないことだ。

しかし君が教室にとどまっていては、狭い空間、ともすれば敵の頭数が増える可能性もあるため不利なのだ。順勢掌の術理である「前敵スライド回避攻撃」を行って、敵を振り切りつつ、攻撃、そして足が止まった瞬間に、距離を拓き、囲みを突破する。

そこには、広い世界が広がっている。味方・助っ人などはいないが、君が練習してきた技術を、いかんなく発揮することができる広い空間が待っているのだ。

先生に怒られたらどうしよう →→ 先生に怒られることのすべてが、正しいわけではない。君は、自分自身に危害が及ぶのをさけるために、やむを得ず電撃突破をしたのだ。合理的な理由がある。

失敗して突破できなかったらどうしよう → 何度も突破を試みよう。狭い空間だ。自由移動がしにくい、その狭い場に居続けたならば、君は高い確率で捕まってしまうことになる。

思いだして欲しい。君の戦いでは、全員を倒す必要なんてない。戦いの流れはこうだ。

理不尽な要求がやってきたら、とにもかくにも、拒否する。嫌だね、お断りする、そんなことはしたくないね、と。

暴力をちらつかせたり、何ら行ってくるかもしれない。しかしすべて無視でよい。いじめに正当性など、一切ないからだ。何を言われても、全く気にすることはない。とにかく、先制攻撃に気を付けよ。距離を無意識に保つのだ。

敵の攻撃。すぐに斜め後方スライドせよ。戦局を見る。その場が広い空間ならば、引き続き移動遊撃戦で攻防し、引き釣りまわすこと。それだけで、君のすごさと、いじめ連中のふがいなさを見せつけることができる。

頃合いをみて、突然一人のてきに猛然突撃せよ。ひるんでも構わず、連続攻撃で集団の外へと移動せよ。そして離脱行動を開始する。戦いの場となった教室を後方へ置き去り、先生も無視すること。

校外へと離脱せよ、ここまで離れるから「離脱」である。当時の連中は、ここまで離脱することをもって「脱走癖」と呼んだ。何を言ってる?助けもしない連中のたわごとである。

古来より、戦いの終盤において、弱者が頃合いをみて戦線離脱することで身を守るのは、正当な手段であった。敵はそれゆえ、思惑を失敗するのである。因縁の都度拒否し、そして手を出して来たら、かわし続け、電撃攻撃し、ひるんだら離脱せよ。

その先に、取り返す君の時間が待っている。

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どうしようもなく辛いことがあった時は・・練習した

何度やってもうまくいかないときは。どうした?

とにかく練習した。

花火大会の最中に、普通に一人で歩いている時、警察官に職務質問され、公衆の面前で身体検査され、指紋をとられ、不良少年たちに指をさされながら、「おまわりさん!その悪い奴を捕まえて!」と言われた時は、どうした?

とにかく練習した。

伝染病がはやり、今まで培ってきた生徒が、一気に去って振り出しに戻った時は。どうした?

とにかく練習した。

流派の後押しを奪われ、問い合わせが一気に減り、途方に暮れた時は。どうした?

とにかく練習をした。

場所を借りて講習会を開いたが、誰も来なくてお金だけ無くなった時は、どうした?

とにかく、練習をした。

お金がなくて、家賃を払うことができなくなり、拠点を、選択肢のない中で失った場合は、どうした?

とにかく、練習をした。

疲労がたまったのか、倒れて病院に運ばれたばあいは、どうした?

とにかく、練習をした。

学年で上位をとりつづけても、通知表の数字があまりに低く、文句を言ったら「お前の胸に聞いてみろ」と笑いながら言われた時は、どうした?

とにかく、練習をした。

これらの、うまくいかなくてもいい「どうでもいい」時でも、練習したのだ

では、どうしようもなく、辛い時は、どうした?

やはり、とにかく、練習をした。

どんなことがあっても、練習をした。子に頭をひっぱたかれても、それがあなたが達人になった唯一の理由だから、それがあなたが、他の人と違う、最大の武器だから、と言ってくれたから、練習をしてきた。

なにかあった時、練習できるか?ではなく、いかにして普段どおり練習をするか?をまず、考え、そしてすぐ実行する。

やりはじめにどれだけ辛くても、やり始めてしまえば、ほぼ使命を果たすことができる。

私は達人である。

達人は、練習を苦にしない。嫌なものととらえない。師の教室に行くときは、いつも希望をもって臨んでいたから、とにかく参加したかった。

「今日は○○だから練習はいいや」は、いつか「やったりやらなかったり」となり、その後、達人となくなる

私は、もう、何十年、練習をし続けたか、わからない。学生の時であろう、きっと、休んでしまったのは。覚えているはずが無い。

これからも、きょうも、いまから、練習をしにいく。

達人になるのは、これが最も重要だ。とにかく、練習すること、だ。流派とか、有名先生の指導とか、一切関係ない。君次第だ。例外はない。私は、休まないでずっとずっと積み重ねてきたから、自然と術理を極めた達人となったのだ。まだ先があるが、でも、あの日思い描いたもっと先まで、到達したのだ。

きみもなることができる。とんでもない境地に来るだろう。

辛い時は、せめて、未来を楽しみにするといい。正しいやり方?そんなもの、人が教えられるはずもない。そいつは、そういって、金を儲けたいだけだ。正しいやり方は、君が練習をし抜いた果てにだけ、気づくことができるものだ。安心してほしい、もっとも効果的なやり方は、君はずっとやり続けた先にのみ、待っている。

一緒に練習しようか、私も、今日はとっても気持ちが落ち込んだ。

一人を実感した。最も逢いたい人に、やっぱりこれからもずっと逢えないことを痛感した。花火に行って、人が笑いあう中で、それを悟った。横に居た人が、もういないことを悟って。

最も辛い時だ。さて・・・・とにかく、練習しにいこうか!

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必ず前に進む盆~城端トンネルを抜け、砺波平野に行くために

「帰ってきました、ただいま」

東海北陸自動車道の城端トンネルを抜けると、長かった一車線の区間が終り2車線となり、進行方向右手に、砺波平野が見えてくる。

スケールの大きい扇状地に沿った高速道路を下っていくときの達成感と、安心感は格別である。

そして冒頭の言葉をいつも言う。一人の時も、子らといる時も。

今年の盆休みは、富山に帰ることができない。仕事の都合、金銭面の都合だ。しかし今すぐにでも、富山に行き、大切な人に逢いに行きたい。

しかし、いま帰っても、自分の望む未来には近づくことができない。ここは、ぐっとこらえて、盆の時間を前に進むために使う。

鬼籍に入った人たちが「帰ってくる」と言われる盆。

昔は、そのことについて、特別な思いが湧かなかった。でも、今は、居ても立っても居られない心境になってしまった。

今年もとっても後悔した。お金がない?時間がない?そんなこと、どうでもいいじゃないか、帰ればよかったじゃないか、とずっと考えていた。

8月頭の富山行き。その時、本当にゆっくりとした。筆頭弟子や一番弟子と語り合い、想いを馳せ、釣りをしながら亡き大切な人のことを考えて、能越道高岡インターに入るまで、ずっとしのんでいたのだが。

盆休みはいけない。ちょっとした買い物でも、どこにいっても、父親と母親、その間で笑う子供たちの姿を見る。あまりのまぶしさに、ぼうぜんとしてしまう。

自分がいつも考えていることは、もうこの世に姿を残してない人のことばっかりだ。どれだけ何かが起ころうと、触れたり、話したりできない人のことだ。

夢にも出てこない。そばにいるんだ、と思うことができるようなサインも一度もない。生前「これがそばにいるサイン」というものを、決めてなかった。決める心の余裕なんて私にはなかった。心にいる。心にいるんだけど、姿が見えない。話したい。できることなら、逢ってみたい。

2年以上の時が流れても、何も変わっていない。むしろ、時が過ぎていくことに、焦ってしまう。昔のこと、なんて、絶対に思うものか。

とにかく、忘れたくない。どんなことがあっても忘れない。そう思って、一緒に見た未来を、今も追っている。

でも、一人はやはり大変だ。前に進む、必ず進むと決意しても、これまでと同じように、積み重ねていくしかない。圧倒的に多くの時間を、一人で戦わないといけない。

しかし孤独だからといって、子を、必要以上に巻き込むことはできない。それぞれの道がある。20歳以上も上の人間の、夢に付き合わせるわけにいかないのだ

こんなことを、これからも毎年思うことになるのは、とっても大変だと少し前まで思っていた。

家族連れを見るたび、心に負担がかかり落ち込んでいた。そんな中、最近、ふと思い出したことがあった。

「優しいフリでもして、偽善者にでもなって、幸せを願ってみるのよ、時に泣けるくらい、救われるから」

別れが来ることなど考えてなかったときの、ほんの冗談だったのだろうが、それを最近、何の脈絡もなく、ふといだしたのだ。

その冗談を実行してみた

家族連れや、恋人たち、友達と集い笑いあう人たち、BBQで盛り上がっている人たちに、こっそりと

「いつまでも幸せに」

「別れもなく、そのままずっと一緒でいられますように」

「最高の笑顔だね」

「盛り上がってるね、今年の夏は熱くなりそうだね」

なんて、独り言で呟いてみる。思ったままに。

そうすると、一時だけど、どんな本やサイトに書いてあるピンチ克服法よりも、心が救われた。あの人は、この効果を知っていたのだろうか?

正直、今年の夏はかなり厳しかった。やることなすこと、すべて失敗になり、安い拠点すら、維持できず愛知の定住先を失い、後継のメドなどまったくたちもせず、八方ふさがりだった。愛知では何もうまくいかず、見限っていた。

その状況を救ってくれた言葉だった。もう愛知にも、刈谷にも、こだわらない。本当に必要とする人のもとに行けばいい、と思った。

どん底の気分の中でふと脈絡もなく、自分を救う、あの人のこの言葉を思いだしたのは、人知を超えた存在のサインだったのかもしれない。そうならば、どれだけ嬉しいことか。

今年の夏は、偽善者になって、幸せでも願ってみる・・・・か。サインであると、信じてみるのも、いい。

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「護衛武術として伝えていく」と報告をする富山旅へ出発

八卦掌水式門の八卦掌は、護衛武術である。

八卦掌修行者で、そう言い切る人は少ない。しかし私は、初めての八卦掌の師から、八卦掌は「護衛拳法」だと教えてもらった。そして、これからも、今度は師として、必ず弟子に「八卦掌は護衛拳法である」と宣言していく。

その方針を、氷見にて報告する。節目節目で氷見に帰って報告するのは、これからずっとである。誰よりも理解し、誰よりも描いた目的を望んだ人、そしてその目的を実現するための旅に旅立つことを楽しみにしていた人への報告は当然である。

この方針は極めて重要だ。なぜなら、師として、伝える武術の最終目的を明確に示すのは、師の最も重要な使命であるから。そして、中学生の私は、その言葉を聞いて、心が激しく震えたのをハッキリと覚えているから。「護身術」に需要があるから、護身術の方が、人のとっかかりがいいからといって、水式門の八卦掌を、「護身術」化したくない。あくまで「護衛術」だから。

心が激しく震えたのは、私が拳法を始めた理由が、人を守るためだったため。ケンカに強くなりたい、とか、武術やカンフーが好き、とかではなかった。とにかく、人を守るくらいの力をつけたかった。間に合わなかったが。

そのように、私は護身術として練習したことなどない。常に「護衛術」として練習してきた。だからいまだに、斜め後方スライド撤退戦対敵身法(単換掌術理)と同じくらい、前敵スライド回避攻撃対敵身法(順勢掌術理)も練習するのだ。

八卦掌水式門は、以後、護衛武術として指導していく。師よりそのことを託され、示された技術を体得し、自由に身体を動かすことができるようになった。しかし、まだ先がある。満足なんてしていない。董海川先生が創出した「転掌」を現代に再興し、それを広め、その仕事をしつつ、転掌式八卦掌を極めていきたい。

私ももう、50を越えた。私は師として、弟子に模範で在り続けたい。しかし、加齢は人間の宿命であるため、これから先、模範で在り続ける期間は無限ではないのだ。

明日から富山である。八卦掌水式門発祥の地、氷見にて、もう一度、護衛武術を再興させる決意をする。私についてきてくれる一番弟子とともに。

くしくも、明日は氷見で花火があがる。一年で、最も氷見がにぎわう日である。

今日も暑い中、すべきことをした。己に課した使命をこなした。

明日もまた、堂々と、富山入りをし、練習をし、教え、釣り糸をたらし、花火を見、大切な宝を守る。そして報告する。

今年の盆休みの前半は、きっと愛知である。本当は、ずっと氷見にいて、「帰ってくる」期間中、そばにいたい。まだ実感が湧かない。実体がなくなったことも、もう実体に二度と逢うことができないことも。

まだ3回目の盆だから、実感が湧かないのかもしれない。

日本映画には、死んだ人がよみがえる映画が結構ある。「黄泉がえり」や「今、会いにいきます」「異人たちとの夏」などだ。私は、死んだ人を見た事や、感じたことすらない。だから、そのような世界がリアルにあることを考えたこともない。きっとこれからも考えることはない。

しかし、大切な人を失って、その悲しみや空虚感から抜け出すためにも、ある種の「体験」は、意味のあることかもしれない。東日本大震災でも、多くの遺族の「体験」が語られていた。世の中には、そのような「体験」を意味あるものとして導く人もいるのだし。

実体に逢えなくても、今でもそばにいると思っている。最期が近づく中、いつでもそばにいると約束してた。約束は破らない人だった。だからきっと、そばにいるという気もちのままで、旅立った。

だから、私は今、どんな怖いことがあっても大丈夫。例えどれだけ寒い暗い時間の練習でも、誰もいない野生動物だらけの夏の公園の暗闇でも、あの人も、振るのを見ていた、そして今も変わらず持っている、あの時からずっと毎日練習でも使っている樫のシャッターフック棒さえあれば、一人でどんな闇に入っていける。

これほど心強い道具があるだろうか。そしていつも、危険を感じた時には、私の手元にあった。イノシシの時も、野犬の時も、ピエロの時も。私にとっては、ジェダイのライトセーバーに匹敵するもの。だから今日も、今までも、そして明日も、練習し続ける。持ち続ける。決して離さない。

あの人も知っている、この棒。操る自分を、すごいと言ってたあの時の笑顔の顔。

何が一番心強いって、すごいすごい、と言ってくれて、「それさえあれば式人が追っ払ってくれる」と安心してくれていたから、あの人の気持ちが宿っているようだから、安心しているんだろうなぁ。つまり、自分の心にも、樫棒にも、居続けてくれるんだ。なんとも言えない安心感。気持ちがこもった伝説の武具みたいなもの。

真っ暗闇でも、恫喝されても、きっと切り抜ける、自分は大丈夫だ、って、勇気が湧いてくるんだ。燃え上がるような、全身の毛が逆立つような激しい勇気が、恐怖の感情とともに。絶対にここから先に行かせない、倒してみろ、自分を倒すのは、とっても難しいぞ!かかってこい!って、熱く燃える衛者の情熱が湧いてくる。

あの人の実体がなくなっても、いつもそばに居るから、だれかにとって大切な人を守りたくて、今でも守るために、練習ができています。そんなこと、いまでも本気で考えて練習していますよ。いつも心に居てくれてありがとう。今から、そちらに行きます。あなたの宝と一緒に、会いにいきます。

八卦掌水式門富山本科イメージ