いじめに苦しむ君へ贈る、勇気が出るメッセージ集。」カテゴリーアーカイブ

いじめに苦しんでいる君・あなたの100%味方である八卦掌水式門の代表・水野が贈る、気持ちを奮い立たせ前を見ることができる温かいメッセージ集。

原動力は、君だけのもので。君だけの原動力が、未来をひらく

原動力。人に言うのが恥ずかしいようなものでもいいのではないか。

犯罪めいたものや、人を悲しませたりするうえで成り立つようなものでない限り、君だけのオリジナルでいいと思っている

長年、八卦掌を練習してきたが、その原動力は、常に学生時代のいじめだった。自分に対するものではなかったが、自分の弱さが原因で人が苦しみ、自分が思いつめて抱えたことが原因で、人の未来が変わった。

人に言わせれば「極めて重たい」原因だと思う。信頼できる人に話したこともあった。しかしその人は対応に困り、嫌がり、自分が原因で人を追い詰めていることを痛烈に批判した。

その指摘は間違っていないのだろうが、10代の少年にその言葉と内容はあまりに過酷で、人に話すことが怖くなってしまった。その後、完全に心を閉ざしていたと思う。

せめて人を守る仕事に就こうと考えて、柔道を習ったり、勉強をし続けた。人には、「なんでそんなに凝り固まるのか」とあきられたが、その原因を決して言わなかった。

この場は、いじめを受ける君へのメッセージでもあるため、腹を割って話しているが、一般の人には理解されないようだ。仕方ない。

八卦掌を練習し始めてから、すぐに、人に教えることを考え始めた。技術がうまくなるにつれて、その願望はより具体的なものになっていった。

『弱者生存の理で貫かれた護衛護身術「八卦掌」を日本全国各所に広め、誰もが、大切な人・自分を守る技術を学ぶことができる環境を創る』

しかし現実は厳しく、無名な自分、流派の後押しなど無い自分に、誰も気をとめることはなかった。試みすべてがうまくいかない。周りから「それ見たことか」と嬉しそうに揶揄され、無礼な問い合わせにも翻弄され、気持ちが何度も折れそうになった。

でも、忘れられない言葉や想い出が、ここぞという時に、背中を押して支える。何度それを感じたことか。

うまくいかなくて、ふとんに顔をうずめ叫ぶ。当然視界は真っ暗だが、そうすると、どこかの底に落ちるような気がして、そこで、フッと、思い出すシーンがある。

「八卦掌水式門」。門の名前の由来は、私のプロフィールでも軽く触れている。

同級生の、いじめを受けている辛い時期のさなかの、つかの間の笑顔での同級生との会話。

「水野式人(しきと)だから・・・・水式館?水式塾?・・・・・やっぱり水式門だね」

そんな他愛もない言葉だったが、自分には確かに、嬉しそうに見えた。正直、イラストのように、その場が海岸であったのか、田んぼの土手であったのか、覚えていない。しかし、同級生の後ろには、青い空が広がっていて、同級生が笑顔であったことだけは覚えている。

もう、40年近く前の話なのに、心から離れず、何度夢見たことか。

対多人数移動遊撃戦の練習では、日によって、設定した時間を到底もたせることができないと感じる日がある。そういう時、自分に負けそうになる。手が止まり、足がふらふらになり、そのみじめさが余計動きをにぶらせる。

でもそんなときも、いつも思い出す。そうすると、もう動かない、と決めつけていた身体に、思わぬ力が入り・・・それが一層自分の息を切らすのだが、やり切ってしまう

このシーンは、練習時だけではなく、全国展開のイメージの原動力ともなっている。

八卦掌を教える際、名称に全く迷うことはなかった。

「水式塾?水野式のことか?宗家きどりか」と批判されることもあったが、まったくどうでもよかったね。理由を言う気にもならない。水野式のつもりではなかったが、八卦掌成立当時の移動遊撃戦を指導しているところは国内では水式門だけ。

事実上の「水野式」になってしまってる。八卦掌を超えることはないが、人から見れば、水野式に見えるのだろう。それで結構。

私は、同級生のその言葉があるから、前に進む。たとえ、誰にも相手にされない現状でも、信じて疑わない、とはまさにこのこと。

原動力は、君のオリジナルであればあるほど、力が発揮される、間違いない。

何が言いたかったのかというと、原動力を見直してほしかったのだ。君の原動力たる理由を語る時、それが本当の心で選んだものなのか?そして君の心を動かすものなのか?

人に話すものでもない、鳥肌が立つような、心が震えて泣けるようなものが、原動力たりえる。

社会に適合させる必要もない。私は、ずっと、社会に適合させるために、夢の軌道を変えたりした。そのようなものでは、辛い時の動きを維持できない。

原動力を明確にし、時間をかける覚悟をしたとき、八卦掌は多くの人を救う存在となる。そう信じている。

君にとっては、何が原動力となる?

みんなと友達になりたい・・・素敵だね、叶うと、きっと思い出だらけの学生生活なるよ。

あの子が好きだから、情けない自分でいたくない・・・素晴らしい、それこそ青春だよ。

彼女に怖い思いとか、一切させない・・・・なんて崇高な想いなんだ。かっこいいよ。彼女は幸せ者だね

私は、このような、心から湧き上がった、シンプルな原動力がまぶしくて大好きだ。

心からのものだからこそ、辛い時、倒れそうなとき、支えられるのを実感できる。

自分を支えるものくらい、自分の心の直感でえらんでみないか?きっと未来が変わる。

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独学では無理?描いた未来を得るカギは独学に有り

本当の「最初」から本当の「最後」まで、全部ひとりで学ぶ。それはあまりに大変である。まず、学ぶための教材を用意しなければならない。教材の選別作業はかなり大変である。

私が佐藤先生の本に出会うまで、多くの時間を要した。最初は空手の本で練習をしていた。それも大いに役立ったのだが、運命というものをかんじなかった。同級生をいじめていた連中の仲間が、空手をやっていて威張っていた経緯もあったため、印象もよくなかった。

八卦掌の本は、全く違った。求めていた矢先、名もなき本屋で、パッと目に入ったのだ。空手を一人で練習をしていたが、相手をあっと言わせるような違ったもので対抗したいと思っていた。何かないか?とずっと考えていた。

アンテナがはられていた状態だったんだね。独学は無理なんて言葉を気にせず、空手を練習し、本屋をめぐるという行動をしていたからこそ、佐藤先生の本に巡り会った。運命を感じたね。

そして・・・本を一通り読んだ後、「これは複数を想定したものだ、いける!」と直感したんだ。今読み返しても、本の中に、「対多人数移動遊撃戦」の文字はひとつも書いてない。掲載技法も、近代八卦掌の技法なのに。

対多人数で負け、体格で負け、武器で負けて。あの負けは、八卦掌が想定している「不利」すべてを含んだ「負け」だった。それすらも、今考えると、何かしら因縁めいたものがあった。

近代スタイルではあの時に戻ったらまた同じように負けてしまう、という気持ちが、昔日のスタイルに自分を導いた。それもまた運命的だった。

独学でスタートしたことは、これほどまでに、多くの連鎖を引き起こした。人生を変えたと断言できる。これまでは、野球とスキーにしか興味がなかった。ブルース・リーの映画は野蛮で嫌いだった(今は彼の思想が大好きです)。そんな少年が、「独学」で行動したことで、すべてが変わった。

独学をすると、本を見つけたり、道場の情報が流れ込んできたりする。

「そういえば、あそこに、なんらかの道場があったな・・・」その思い付きは、実はかなり大事。

さっそく調べてみよう。なんなら、電話して許可をもらい、訪ねて体験をしてみるといい。そういう行動が、未来につながるからね。

私のところでも、先生に学ばなければ理解できない部分がある。一人ではわからないところがある(そもそも、人に習わないとわからない部分しか水式門では教えてない)。一人で自習できる部分は、指導動画で出すが、それ以外は、やはり習いにきてもらわないと伝わらない。

もし君が、習いに行くのが面倒くさい、怖い、お金がもったいない、本でいいでしょ、なんて考えているなら、すぐやめてしまえ。拳法の練習は面倒くさい。先輩は怖い。お金はかかる。本に真実は書いてない。それが理由だ。

独学の定義はひとつではないため難しいが、拳法の練習はほとんどが独学なのは事実。しかし皆の言う独学と、私の考えている「独学」は大きく違う。

例えば、君が「本でいいや」と思ったその本に、一人の人間の膨大なノウハウと真実がつづられていたら、独学の大きな味方となるだろう。しかし味方となるだけだ。拳法なんぞ、しょせんは対人の制圧・殺傷技術。人と向き合うことをしないで完結するはずがない。

そして、さきほどもいったが、多くの八卦掌(拳法)の本を見ればわかるが、本当に伝えたい部分は書いてないもの。特に八卦掌は昔から秘匿性の強い閉鎖的な性質があるため、書いてない。

ネットでよく見る「独学では無理」の理由を見ると、先生にチェックしてもらえないから無理、とか、ちゃんとした先生でないから無理とか、実にとんちんかんな意見が多い。しかしそういう理由ではなく、独学では「強くなるための中核技法に触れる機会がないから困難なのだ。

では、先生のところに行けば強くなるか?知人に聞いたが、日本の中国拳法愛好家の中では「良師三年」という言葉が有名らしい。どういう意味かと思って聞いてみると、「良い先生に習わないと強くならない。だから良い先生を三年かけてでも探して教えをうけろ」とのことだ。

先生任せもいいところである。先生が君を強くするんじゃない。強くなるのは、強くなりたいという強いエネルギーがそうさせるのだ。

拳法の練習では、有名先生のネームバリューは、強さになんら影響しないと確信している。有名先生のもとで学んでいる人が自動的に強くなるのなら、達人だらけとなる。そして苦労もしない。

多くの有名先生の門弟と関わったが、その定義は当てはまらないようだ。自分で道場を開く際、自分の実力不足・信用度を補ううえではいいかもしれない。しかし本当の実戦では、何ら役にも立たない。

先生の名前に頼っていたら、たとえば、門に来る言うことをきかない礼儀知らずに、言うべきことも言えなくなる。自信のなさというものは、すぐに人に伝わるものだ。先生の経歴を誇るのはいいが、そんなものよりも、自分のいいところを誇ることにつながるような練習・経験を積み重ねたい。

先生の居ない環境の中で、己で考え抜き、工夫して、苦労して、パッと境地が開いた時、とてつもない自信がつく。私は、八卦掌修行期間40年のほとんどが、一人での自習である。自信があるのは、雑草のごとき這いつくばるような練習環境の中で、自分で考え、気づき、それがすべてつながったからだ。

習い始めの師匠は、佐藤金兵衛先生の本であり、次は無名な中国人就労生先生であり、次は柔道初段で小学生らにバカにされていた道場のコーチのおじさんだった。でも本や彼らに学んだことこそが、今まさに役に立っているのだ。

少ない技情報から真実を推測するくせは、佐藤金兵衛先生の本で学んでいる時に身についた。対多人数移動遊撃戦の身法と度胸は、就労生先生の薦める練習方法から学んだもの。乱戦時の弱者の身法は、柔道初段のおじさんから学んだもの。指導方針も、人を導く姿勢も、コーチのおじさんから学んだ。

後に正規の八卦掌の伝人に教えを請い、十数年を経て指導許可を得たが、その先生に習ったのは、ほぼ梁派の基本のみ。その先生も「八卦掌は対多人数想定の拳法」と言っていたが、教えてくれたのは、眼前攻防時の身法のみ。

一人でもがいていたころの失敗の経験のほうが、今のレベルを構成する大きな部分となっていることに改めて気づいた。

自分で考え、失敗し、よかれと思って取り組んだ練習が、後で役に立たなかったと気づいたとしても、そういう積み重ねこそが、実戦や、後の指導、そして自分の強さの構築に役立つのだ。確信している。

有名先生のもとで習わないと強くなることができないという意見はいまだに聞く。潜在的にそういう気持ちを持っている人間が多い。多くの人と話してみて、強く実感した。

そういう色眼鏡は、目の前にいる真の「いい先生」との出逢いを無駄にしてしまう。

みんなのやたらと大好きな拳法の達人も流派も、一般人はまず知らない。そもそも、実戦では、言う暇もないし、聞いてもくれないし、言う気持ちの余裕すらない。

「やあやあ、我こそは!○○門○○伝門人、○○先生の弟子○○ぞ!いざ尋常に勝負せよ!」

鎌倉時代の武士ではない。さすがにこんなことは言わないが、有名門派のブランドのこだわるのはそれと同じくらい実戦では意味がない。

中国拳法の練習なんぞ、先生の所にいって技を習ったら、あとはひたすら家で、膨大な数の反復練習を積み重ねるのみである。

「変なクセがつく」として独学を批判する者もいるが、そもそも、変なクセがつくためには、何千時間の積み重ねが必要である。変なクセがつくまで繰り返し練習している人など、そうはいない。だからその点についても心配する必要はまったくない。

いいクセも簡単につかないのと同じで、変なクセも簡単にはつかない。よって、悪いクセがつくという心配も批判も、練習時間をあまり取ることができない現代人にはほとんど関係がない。

先生に習って、家でひたすら自習して、何か月後かに訳が分からなくなってくるものだ。その時先生のもとにいって再び習えば、また違った理解がある。だから通うのだ。

家の自習時間と、先生の所に行って習う時間の比率は、私が通っていたころで言うと、およそ88時間:5時間(※2週間に一回、先生の所にいって習っている場合のたとえ)だった。ほとんどが自習である。

私は、自習=独学だと定義しているため、独学こそ、拳法が強くなるための基礎だと思っている。

独学を批判している人の中で、一週間のうち多くの時間を、先生のもとで学べる環境を持っている人は少ない。言っている連中だって、結局は多くの時間を一人練習に費やしている。

そしてマンツーマンでもない限り、道場にいって先生に診てもらえる時間なんぞ、たかが知れている。有名先生のもとであれば、その先生自身に見てもらえないかもしれない。見てもらえるのは、その先生の弟子や先輩であったりする。

だから、強さを構築するに、自分以外の要素はあまり関係ない、ということだ。

先生のもとにほとんどいけなくとも、先生がまったくの無名であろうとも、先生の教える拳法が、未熟で実戦的でなくとも、本人がやる気さえあれば、確実に己の設定したところにたどりつく。

回り道してしまう?回り道をすればするほど、オリジナル性が出て、強さに深みが出る。人に教える際、生きた経験として、自然と、そして自信に満ちあふれた中で、弟子に技の説明ができる。

拳法の本に載っているような、分かりにくい中国語の拳訣や拳諺、「竜のごとく・・・」のような分かりにくい比喩に頼らず、自分の言葉で説明ができるようになる。これこそが「よい先生」。

いま、君がどんな環境で学んでいようとも、それは将来の強さにマイナスの影響を与えることは一切ない。言ったはずだ。当門八卦掌は、プラス思考で考えよ。たとえその日、一回しか技の練習ができなくとも、一回分達人に近づいたのだ。だから大丈夫、前に進めばいい。

やればやるほど強くなる。まったくの独学では、自信をもって繰り返すこととができない。だから、ちかくのカルチャーセンターに教室があるなら、そこで基礎を学び、繰り返すがいい。だから行動しよう。

健康の代名詞である簡化二十四式太極拳。その教材すら、護身護衛の熱い気持ちで繰り返せば、間もなく実戦で人を守るエッセンスに君自身だけで気づき、君だけの実戦拳法と化す。断言してもいい。すべては君の気持ちが決めるのだ。

動けば、行動すれば、その分確実に強くなる。八卦掌水式門でもいい。近くの道場でもいい。どこでもいい。君が習いたい拳法があるなら、門を叩き、もしくはコンタクトをとってみるがいい。

そこで習って、繰り返すための教材を手にしよう。大丈夫。君より下手な先生なんていないから。

「今一人で練習しているのですが、どうしたらここから先に進めますか?」

先生にそう尋ねる勇気を持とう。もちろん礼儀は尽くすこと。教えてもらったら、ありがとうございました、を言う。それだけが、必要品。

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これだけでいいんでしょ?女性と八卦掌

「これだけでいいんでしょ、違うの?」とこの子はいう。

私が人に教え始めの頃、まだ自信とか、指導方針が定まっていないころ、この子は確かめるようにこう質問をしてきた。

今ならば、はっきりと「これだけでいい」と答える。

女性の筋力は、考えている以上に、男性より少ない。よって力と力がぶつかる技では、簡単に弾き飛ばされてしまう。

「私の攻撃なんて、弾き飛ばされるだけ」がこの子の口癖だった。

映画の影響で、「八卦掌=女性」というイメージを持っている人も多い。インターネットの検索エンジンでも、その言葉で調べている人が結構いる。

たしかに、斜進攻防の八卦掌は、敵の目の前から動かず、激しく打ちあう武術に比して、女性に向いてそうなイメージを持つ。

しかし多くの八卦掌は、斜形スタイルなれど敵とぶつかり合うスタイルである。我の力のベクトルと、敵の力のベクトルが、正面きってぶつかってなくとも、抗する形が少しでもあれば、その部分で負け始め、勝敗が決する

映画の八卦掌でも、攻防を見ていただければ、まともにぶつかり合っているのが分かる。

このスタイルは、女性にとって厳しい結果を生む可能性があるにせよ、見ていて格好のいいものだ。よって多くの人(男性も女性も)こチラのスタイルの方を採るし、憧れる。

しかし実戦では、見栄えが通用しないのは、常に言われていること。実戦でないにしろ、組手・散手・乱取り等で試してみると、いかに体格等の要素が勝敗に影響を与えるかがわかる。

体格の良い、筋力のある初心者が、鼻穴を広げて力任せに攻撃をしてくる。初心者なのに、力任せの攻撃で我の攻撃がおくれをとったとき、言いようのないむなしさを感じてきた。

多くの人間はここで「体格差があるから仕方ない」で終わらせる。

冗談じゃない、私は常に、そこから考え続けてきた。答えは、単換掌の術理の中にあった。

眼前攻防こそが八卦掌のたった一つのスタイルだと思っていたが、負けるたびに湧きおこる悔しさが、八卦掌成立当時のスタイルにたどり着かせた。

たどり着いた原因に、この子の「弾き飛ばされるだけ」の口癖は大きかった。

君がいじめられている原因が、色々な面での「弱さ」からならば、迷わず八卦掌を選ぶがいい。できるなら、昔日の八卦掌を学ぶがいい。女性であるならば、なおのことだ。

昔日の八卦掌の利点は、「弱者が強くなるためになぜ八卦掌が適しているのか?その理由」 で説明している。

理解でき、本当に克服したいと思ったら、さっそく動こう。動いた瞬間から、事態も動き始める。

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歩いている道が自分の道なら、どこに出ようが問題なし

「どこに行ってしまうのか?」「俺はどこに向かっているんだろうか」

何からしらの目的を立て、行動している人なら、必ずと言っていいほど、このような不安を感じたことがあるだろう。

私はいま、人生で最も厳しい状況にあるため、このような不安を感じない日はない。その不安が湧き上がると、未来への希望を胸に強引に湧き上がらせ、自分を鼓舞している状態だ。

自信満々のように見えて、いつも君とまったく同じ。仲間だぜ。

「ゴーイング・マイ・ウェイ」。私が今まで過ごしてきた学校や職場では、この言葉は常にマイナスの言葉として使われてきた

職場で嫌われている人を揶揄する言葉として使われたり、悪い社員の典型例として上司がたとえ話として使ったりしていた。

日本語に訳せば「我が道を行く」だが、なぜそれが悪口になるのか、全く理解ができなかった。とっても潔くて、とっても心が躍る言葉だったのに。

「同調圧力(どうちょうあつりょく)」が特に強い日本、と言われるが、まさにその通りで、周りに合わせることを強く意識する国民性と相まって、考えることや行動様式はまったく同じと化していく。

例えば、パワハラ研修をしている研修中の研修員によるパワハラに、こちらが「おかしい」というと、なんと誰も賛同者は出ず、かつ賛同者どころか「そんなこと言って・・めくじら立てて・・」と周りからひんしゅくを買う。

そんな涙がちょちょぎれるようなことが、何度も行われていた。学校や会社というのは、掲げている理念こそ「生徒(社員)の個性を重んじ豊かな発想による・・・」が多いが、やっていることは「没個性」作業そのもの。

自分の目指すものに理解を示さず、それならまだしも、攻撃したりけなしたりする集団から、私はある時から、徹底的に距離を置くようになった。集団の中で戦うのもよいが、中で戦う必要がないなら、あえて外に出て、我が道を行く、そう決めた。

「毎日まいにち、望む道に進むための行動をしていないのに、自分の決めた道を歩いてないのに、未来に自分の望む場所にたどり着くはずがない。今だとどんどんずれている」と考えた。

飛び出した後の日々は、不安と、当たり前だったことが当たり前でなくなった、嵐の中に裸でいるようなむき出しの状況だったけど、その中では常に、自分の望むことができる状態だった。

そして実際に歩いてみると、飛び出さず中途半端だったころにはわからなかった色んなことが判明した。それが到達点であろうと思っていた景色・方向性を若干変える。その変化は、まさに自分が歩いた証となる。自分が他人を導く立場になったら、現場での奮闘の中で生まれた変化・独自性こそが武器になる。

自分で工夫し、編み出した技や練習方法、戦法や技の連環スタイルが、従来他人が行ってきたものと違っていたとしても、己の歩んできた結果であるならばどうどうとしていればいい。

どこに行くかは重要ではなかった。どこに行くか、どの場所にたどりつくか、なんて、途中の道の過ごし方でいくらでも変わってしまう。

それは、自分の道を歩いてなくとも、である。ならば、自分の道を歩いていた方がいい。君は現状が嫌で、このサイトにたどり着き、単招式や連招式を練習しているんだろう?また今までの道に戻るか、そのまま進むか、君次第だが、違う景色にたどり着きたいならば、違った道を歩くのが一番だ。

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試合に勝つため、ブランドを得るため、遊撃戦スタイルにこだわるのではなく既存の道を歩くのも一つの価値ある道。

しかしそれは今の自分が望むことではない。私は、この瞬間も、自分の道を歩くがゆえのスリリングさと高揚感を味わっていたい。

苦しいこともある。だけど、黙って進む。苦しいと言えば「好き勝手やってるんだから、文句言うなよ。俺なんてもっと苦しい」なんて言われるだけだし、人に言っても何も解決もせず気も晴れることはないため、そんな無駄な時間は過ごさない。

自分の道を歩んで、それがまったく相手にもされないものならば、それは確実に独自性があふれる「自分ウェイ」なので、大喜びだ。

君が取り組んでいる八卦掌は、今でも日本では珍しい存在。だから迷わず進め。上手くなって独自性が出て来たら、それはますます「君ウェイ」となる。何も考えないでいいから、とにかく八卦掌を信じて進め。

待っているのは、いじめや暴力、理不尽を圧倒的に超えていくマインドだ。英雄的な結果が待ってるぞ。伝説になるぞ。楽しみにまっていようぜ。間もなくやってくるその現実を。

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どうせなら、グランド・マスター(一代宗師)になろうぜ

これは何も、映画「グランド・マスター」の中の主人公のようになろうと言ってるのではありません。

惚れ込んだもの(ここは八卦掌がらみのブログのため拳法など武術を指すが、武術に限らずなんでもいい)があるならば、徹底的に練習しまくって、独自の境地に至ろうぜ、と言っているのだ。そのほうが目指しガイがあるというもの。

そしてどんどん、己のうけた名前で、己の方法で教え、発信していけばいいと思う。到達点は、とてつもなく大きく持とう。

徹底的に練習すると、「この方法はいいぞ」と思ったオリジナルな「ポイント・要領・コツ」に、どんどんと気づくようになる。私自身、先生から使用例(用法・ようほう)やコツを教わった記憶などほとんどない。実はその方法こそが、古来よりの中国拳法の指導法でもあるようだ。

常に自分で、「八卦掌は対多人数を想定した遊撃戦の拳法(※このことに中学時代から気づいていたが、師匠に教わるようになったあと、師伝でもそのように言われ確信した)」という前提に沿って、そこから型の使用例を想定し、散手や組手、対多人数遊撃戦総合想定練習で試しながら編み出してきたものばかりだった。

発力法という言葉も分類も、身法という言葉も分類も、単招式も、連招式も、老八掌の滑歩も、基本歩法も、走圏の実戦的な練習法の工夫も、間合いを徹底的に練る対人想定練習も、買い物カゴで戦う術も、刀術を元にした40~200センチの刀棒術も、そして最も得意とする双短棒も、すべて、八卦掌の元からある技術の術理に沿って、整理し、体系化して、私の八卦掌を確立してきた。

これらの術は己の工夫と苦労の果てに、馬鹿の一つ覚え同然に繰り返して身につけたので、自信のある実用的な技術となっている。

実際、仕事で不審者やらに注意喚起をしなければならないときなどは、買い物カゴや収穫カゴなど不審者を刺激しない類似の道具を持って万が一に備えながら対処することで、多くの実戦的経験を積んできた。

※乱闘やケンカを好んできたから実戦経験が多くなったのではなく、『大切な人を守る』と言う強い信念を持って生きてきたため、不穏な状況に直面した時ごとに、その信念が実戦につながりやすくなる行動を選択させ、結果人よりそのような経験が多くなった、のだと考えている。

これらの経験を踏まえ、師伝であったり、暗黙の了解となっていたりしていた対多人数戦の口伝(教えらえた要領)を己の経験に加えまとめる作業を真剣に行っている。これは、経験の浅い人間が書く無責任で非現実的なポイント・要領ではない。

私こそ、このポイントを書くにふさわしい(最強とか、そういうおごりたかぶった意味ではない)。

対多人数遊撃戦のポイントをまとめる人間としてふさわしいと確信している理由。それは、実戦の初めてが、対多人数数遊撃戦だったから。そしてその戦いの結果で、人を苦しめ、そして自分も苦しという、真剣に向き合わざるを得ない事態を招き、以後そこから逃げることなく努力を重ねてきたから。

今まで、人と争うのが嫌いで、ケンカもしたことがなく、そして暴力を否定し、「強くあること」を真向から不要なもの、と軽視してきた。その態度が人を巻き込む思わぬ事態を招き、人を守りきることができなかった日からずっと、決意して向き合ってきた。そんな私だからこそ、腹の底から真実の声のもと、身を切るがごとく書くことができる。

目の前でいじめの精神的暴力に苦しむ人を守り切ることができず、その子を不登校へと追い詰め、そんなこと、もうさせないと必死で強さを求めてきた自分だから、書くことができる。

散手や組手・乱取りで強い人間相手に試し、話にならないくらい全く通用せず、そこで得た感覚や教訓をまた試す、という繰り返しを十数年以上にも及ぶ長い期間実行し進み続けてきた私だからこそ、書くことができる。

つまり私の伝える八卦掌は、梁振蒲先生伝八卦掌の技術を原点としてはいるものの、私の経験・練習を通して新たな原点を作り、古来のごとくの移動遊撃戦の要素が強くなった技術体系となった八卦掌。

今年の年初、梁派伝の継承を採るか、己の経験にそった八卦掌の道を進むかの決断をするとき、全く迷うことなどなかった。それくらい、自分の得た技術の根幹は、八卦掌の術理ではあるが、己の独自の経験から気づき、そして生み出され影響を受けたものばかりだった。

この境地、拳法でもなんでも、周りがあきれるくらい積み重ねたものがある人であれば、分かってくれる境地だと思う。

よく1万時間の法則(物事を極めるには1万時間くらい費やすと結果が出てくる、という目安の法則)が言われるが、自分の場合、2万時間を越えたあたりから、もう数えるのも止めてしまった。そういう世間の目安ではピンとこなくなるくらい、己の経験によって得た目安のほうが頼りになってくるから。

流派も、誰それ伝の系統も、こだわりがなくなってくる。実際に人と組み合う時、その時の状況に応じて、繰り出される技なんて、流派の違いなどほとんどない。色んな角度や色んな態勢から打つため、どんな技かもわからないのだ。

組み合った時に、私より強い人間なんていくらでもいる。しかし、大切な人が後ろに控えている時、そんなことは全く考えない。己の経験と技術、体力の限り死力を尽くし、守るのみ。その時は流派なんてももちろん、八卦掌であるか、だれであるかも関係ない。

ただ守るだけ。そのためだけに同級生の前で宣言したあの日からずっと練習してきた。だから常に護衛拳法だと言い続けてきた。

強くなりたい。もう誰も苦しめたくない。大切なこの子の笑顔、決して曇らせたくない。そのために君が八卦掌を選んでくれたならば、メッセージはひとつ。

強くなるのは間違いない。だからグランド・マスターになるくらいまで強くなってやろうぜ。グランド・マスターになって、大好きなあの人、守っていこうぜ。泣いて感謝される英雄的な瞬間が、きっと訪れる。その時、今から練習の旅で味わう苦労が、一層幸せな気分をもたらしてくれるんだ。

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成らぬは人のなさぬなりけり~練習!練習!知識二の次

知識だけ増やしても、うまくいった試しがなかった

長いこと八卦掌にほれ込んで練習してきたが、できないこともあった。そしてある時、改めて振り返ってみて、出来なかったことを検証してみると・・・・

大して練習もせずに、自分で「こりゃぁ無理だ」と判断したものばかりだった。できるようになった技や身法、技術に比して、圧倒的に練習に費やした時間が少なかった。

出来ないときの練習ほど辛いものはない。いくらやってもできる兆しが見えない。一日のすべてを練習のみに費やすわけにはいかないので、また次の日に、再度チャレンジをする。しかしやはりできない。

そうなるとネガティブな言葉が湧いてきて、感情の上下動が激しくなる。

上手くいっている時に「ポジティブ」を心掛けるのは容易だが、うまくいってないときにこの心を持ち続けるのは本当に大変だ。この時こそ、取り組んでいるものに対する情熱とか、本気度が試されるのだろう。

わたしは何度もそのような危機に直面したが、どんな状況下でもあっても、私が経験した最も辛い状況下であっても、やり続けることができた。あとで振り返り、そして今改めて振り返り、私の情熱と真剣度は、とてつもないものだと、誇りに思っている。

名君として名高い、上杉鷹山公の言葉である「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」がある。

自分に言い訳をし、努力を怠っていた小学生の頃は(小学生の頃、すでにこの言葉を知っていた)、なんとも厳しい言葉だと思った。

しかし毎日の積み重ねが当たり前となった今では、限りない励ましの言葉となっている。

毎日積み重ね、どんどん行動している私にとって、「行動すれば必ず成る。」は、後押しの言葉でしかない。

「成らぬ(うまくいかない・実現しない・成らない)」は、行動している自分には全く無縁のこと。だから大丈夫だ!必ずうまくいく!と心が震え立つ。

拳法の練習をしていると、色んな人に逢う。残念ながら、人のすることに口出しをしてきたりする人もいる。どうでもいいことに心を囚われ、時間を使っている人がたくさんいる。

正直、自分は若い世代とはなくなり、時間も有限であると痛烈に実感しているため、間違っても人のしていることに批判したりするなどの無駄な時間を取る余裕はない。

あと、知識もどうでもよくなった。拳法に関しては、もう八卦掌だけで十分。何それ拳法はこうこうこうだ系の知識はもういい。もともと興味がわかなかったが、ここまで向き合ってきた八卦掌を通して、色んな拳法の特色もおのずと触れてきた。もう十分である。

今はただ、前に進むための行動をしたい。そして実行している。毎日の積み重ねは当たり前。そのうえで「今日は何をしてやろうか?」と考え、実行している。そしてその考えのもと、指導し始めてから5年以上、実に多くの経験を積んだ。

分かってもないのにお金なんて取って教えて・・・と無責任な批判をする人間もいたが、そうであっても「道場を開いて指導」という行動をとったからこそ、かけがえのない経験を積むことができたんだ。これも、鷹山公の言葉に恥じぬ行為だ。

最も貴重な経験となったのが、人を見る目が養われたこと。問い合わせをしてくる人の中には、時に極めて礼を欠く人間もいるが、そのような人間は、じきに本質を見抜くことができるようになってきた。これも、幾度と様々なタイプの人間に接してきたから。

問い合わせフォームに、詳しい経歴質問欄を設けないのは、私自身が、その人をニュートラルな気分で見るためである。良い意味で、先入観を持ちたくないからだ。

有名な先生でない私のところには、問い合わせの段階で気合の入っていない、失礼な対応をとる人間がくる。無断キャンセル、質問に答えてもお礼のメールも来ない、などだ。

そのような人間には、こちらも一切興味がないため、心が動じることもない。行動し、目的に常に忠実な自分にとって、このようなことに対する対応は、脇道の無駄な積み重ねしかないため、深追いや心を乱されることなどありえない。

自分がこれからも取るのは、行動のみ。それも、自分の定めた目的に近づくための行動のみ。毎日の練習は当たり前。対多人数戦を乗り切るための、食事や体力維持などに対する配慮も当たり前。

その積み重ねの果てに、今度こそ、大切な人を守りぬくことができる結果が待っていると信じている。そこで初めて、努力の成果を感じられるのだ。

八卦掌の積み重ねの過程で、多くのトラブルに勇気をもって接し、時に人に感謝されたこともあった。しかし満足などしない。自分が自分の自由意志で動くことができる限り、「誰かにとって大切な人を守る」ための行動を選び続ける。

そこで初めて、顔向けができる。そのように行動し切ったならきっと、人生を終える瞬間、満足のファンファーレがなるだろう。

これからとる行動も、きっと何かを成す。そう信じて、今からまたルーティンをこなしに行こうか!

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対多人数遊撃戦八卦掌は「失敗」で出来あがるから、大丈夫!

対多人数遊撃戦を想定した八卦掌の成立の歴史は、「失敗(敗北)」の歴史であったと言ってしまってもいいです。

それくらい、試してきたことのほとんどは、失敗や(組手・散手・実闘での)敗北となった。しかし、本当にまれに、うまくいくことがあるんですね。しかしうまくいったことって、あまり覚えていない。

失敗した時だと、原因や理由を考えざるを得ないから、よく覚えているんですが、成功の時ってついつい熟考を怠るので、あまり記憶に残らない。

そして、成功したことって、失敗して失敗し続けて改善してきたことがやっとうまくいった場合がほとんどであるため、成功したことも失敗した記憶でしか残っていないんですね。

例えば、八卦掌の三大身法の一つ、「内転翻身法(ないてんほんしんぽう)」。外転翻身法や斜進翻身法に比べてどうしても速く気持ちよく回ることができず、様々な対策を施してきました。脚力強化、走圏時の歩の迅速化など、あらゆることを試してきたのです。

内転翻身法の身法で自在に動くためには、急速転身をする上での脚力や、軸を保つための脚力が必要となります。そして身体を維持し、内転翻身時の速度を増すために、八卦掌の主要三発力「翻身発力(ほんしんはつりょく)」で身体を支え瞬発力を後押しする必要が生じます。

そもそも、手取り足取り教えてもらう感じでもなかった(中国拳法はそのような教え方が多い)ので、型や単式練習の中で試すしかありませんでした。

そんな中、習った八卦刀術の中に、刀先で敵の刃を引っかけてしたに巻き込んで、ひるがえって刃先を押し付ける動作があるのを思い出し、その動作を徒手で行ってみました。そうしたら、その動きが翻身発力の力の出し方そのものであり、そこから大きなヒントを得て、ぐっと前に進むことができました。

そして昔独学で練習していた、佐藤金兵衛先生の本にのっていた程派八卦掌の・八母掌「単換掌」の翻身動作に通じると気づき、昔の練習を掘り下げて徒手での動きの理解を深めるために大いに役立てました。

翻身発力は結果的に会得出来、「成功体験」と言ってもいいのですが、自在に使用できるようになるまであまりに失敗数が多かったため、「失敗体験」として記憶に残っています。

そして過程であまりに多くのことをトライしたため、いったん会得したあとはいかようにも対応できることができ、それが自信につながっています。ですから、組手とかで内転翻身法に基づく技をしかけてかわされても、ブレることなく次!次!へと進めることができるんですね。

そもそも対多人数遊撃戦における各技法なんて、簡単に決まらない、失敗が前提のものばかりなので、当たらなくても気持ちが折れないのです。

失敗前提の拳法だから、と師伝として伝えても、多くの人は当たらないことに不安となり、八卦掌に疑問を持つことがあります。やはり練習の中で、失敗を繰り返して技術を積み上げることによって、当たらないこと、攻撃失敗への免疫力がつくようです。

私は野球部に所属していましたが、本当にへたくそだった。練習もしていたし、真面目だったのに。なぜ?と今考えると、その原因が分かります。

あまりに試合に出る経験が少なかった。昔の野球部って、いったんレギュラーと違う補欠の立場になると、ほとんど試合に出させてもらえない。そしてレギュラーとの差がどんどんつくんです。

そして自信を無くし、本当にたまに試合に出ても、試合経験がないから自信もなく雰囲気にのまれ、またエラーしたりする。失敗経験ばかりで、成功経験をする場もないため、相対的にどんどん下手になっていきます。

私は多くのスポーツをしてきましたが、レギュラー・補欠の区別のあるスポーツだけが飛びぬけて下手だった。それは、飲み込みの遅い私が、初期段階で実力がない状態で補欠にされ、実戦経験も積むことができず自信を無くしていくからだったと思っています。

スキーやマラソン、八卦掌など個人で行うスポーツや武術は、人並を越えて進むことができたのは、その証だと思っています。

もしあなたが今、どうしてもうまくいかないことがあったとしても、どんどんチャレンジしてほしい。失敗してあらたにチャレンジしても、また失敗するでしょう。それでいい。

「あなたが失敗し続けるのは、〇〇が足らないからだ」なんて言葉がネットにあふれるが、そんなものは無視していい。たいがい、そのような言葉の裏には「だから私の会社のこのサービスを購入しましょう」という導入がある。

失敗を成功にしてしまうのは、行動による経験のみ。他人のノウハウは、参考程度です。私のサイトに載っている練習法も、きっと君には参考程度にしかならない。真実をつかむのは、君自身による練習の継続と、チャレンジ、そして少しの工夫だから。

その工夫とは、君が練習や失敗をすることでしか、なかなか巡り会えない。だから、どんどん行動してほしい。

ある「成功」の陰には、膨大な数の失敗経験がある。失敗経験が多ければ多いほど、その技は君のピンチを救い、大切な人を守る強力な武器となる。だから、大丈夫。迷わず進め。

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取り返すために大事なこと。手を出し続ける。動き続ける。

対多人数遊撃戦。まったく練習したことがない者にとっては、荒唐無稽な絵空事のように思うこと。

しかし、今まさにいじめや対多による暴力にさらされている者は、その技術が不可能なものだとは決して思いたない切羽詰まった状態にある。

よって、自分の本当の気持ちを通し、平穏な生活を取り戻し、同級生らと笑いあえる日々を取り返すために戦う際、対多の暴力から身を守るためのポイントを書いていきたい。

単刀直入に言えば、複数人の素手の相手と戦う際、大事なことは、「動き続けること」「手を出し続けること」。この二つさえできるなら、君は相手が複数人であろうと、暴力に屈することはない。

動きつづけることで、敵の攻撃照準にとどまることを避け、攻撃をかわすこと(もしくは痛恨の一撃を回避すること)ができる。

手を出し続けることで、敵が我の防衛ラインに簡単に侵入する事態を防ぐことができる。

この二つは、大変重要なこと。過去の多くの戦い(戦争など)でも、相手が複数で束になって襲ってくるときは、この二つのポイントが勝敗を決してきた。

具体例を話そう。大平洋戦争。軍艦が、敵飛行機の爆撃攻撃機・雷撃攻撃機から身を守る際の方法だ。

軍艦は当然少数で敵攻撃機は時に100機くらいで襲ってくる。的(まと)としても大きい。そして海面から飛び立つこともできず、海面上を移動するしかない。その際、軍艦はどのようにして、圧倒的多数の敵から身を守ったのか。

それは、海面上を操船テクニックで移動しまくって、敵攻撃機が定めている照準からズレ続けて投下される爆弾や魚雷をかわしていた。

そして、対空砲火によって敵攻撃機が自由に防衛ラインに侵入し、止まり続けないようにプレッシャーを与えて、自由な攻撃をさせないようにしていた。

日本海軍は大戦末期、ベテラン搭乗員の損耗が激しく、軍艦を護衛する戦闘機が有効に機能せず、操船技術で敵攻撃機を回避しまくっていた。その技術はすさまじく、物量と合理的戦略によって向き合ってきたアメリカ軍ですら、多くの犠牲を強いられた。

対多人数遊撃戦も、実は全く同じ。

複数人と対決する際は、とにかく戦闘開始から敵が皆動かなくなるまで、我はひたすら動き続ける。動くことで、ほんの少しでもいい、照準からずれることで、深刻なダメージを避ける。敵の的にならない。

動き続けるだけでは厳しいので、手を出し続ける。そうすることで、敵が自由に我に近づくことを防ぎ、距離を保つことができる。とにかく手を出し続ければ、敵はうかつに我に近づくことをためらうようになる。

この二つの戦略を実現するために、遊撃戦八卦掌では、練習時から歩き続けて技を打つことに徹底的に慣れ、打ちながら移動する際の持久力を養う。

習熟したら、息が上がらなくなる、ではない。対多人数戦は、そんなに穏やかなものではない。どれだけ練習しても息は上がってしまうので、息が上がった状態で、動き、手を出し続ける練習をする。その苦しい状況を自ら体験し、準備しておくんだ。

この練習は、正直苦しい。しかし取り組んでおくことで、いざという時、身体が我の動きを妨げなくなる。

手を出し続けるためには、肩に力が入っているのは致命的。よって、走圏(下搨掌・かとうしょう)の姿勢を維持する練習で、「指だけに力が入り、肩や腕はリラックスしている状態を保っている」状態を維持することができるように、練習をし続ける。

話を具体例に戻そう。

攻撃を受け、舵が壊れ、動きを止めた軍艦は、もはや敵の的となるしかなかった。いくらたくさんの砲台が備わっていても、うごけなければ、四方八方からの手数攻撃で痛めつけられていく。大戦末期、石油不足で呉近海に停泊せざるを得なかった軍艦らは、激しい抵抗もむなしく、その場で撃沈され、船体を傾けた。

海戦時、敵戦闘機の機銃攻撃などで船上の砲台がすべて破壊された軍艦は、敵爆撃機の自由な接近を許し、近距離からの攻撃でその命を散らした。

遊撃戦八卦掌の練習のメインは、技の習得ではなく、移動しながら敵に力を伝えつつ攻撃して、それを維持していく練習だと思っていい。習う技はシンプルで単純だが、簡単ではない。

しかしポイントをずらさないで練習し続ければ、練習するたびに強くなっていく。取り返す力がついてくる。だから、今すぐ動こう。

きっと間に合う。思いは通じる。私もそうして動いてきた。私は同級生を守ることはできなかったけど、君は、遊撃戦八卦掌のノウハウがあるからきっと間に合う。

取返しに行こう。苦しいこともある。しかしきっと、望む未来が待っている。

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「あの技ができるようになった」ごとにその都度行動してきた

次から次へと行動して、数多くの失策や嘲笑(あざわらい)を受けてきた。

辛いこともあったし、人前で恥をかいたこともあったけど、行動して得たものの方が圧倒的に多かったと、今この時点で振り返って思う。

いつも、今までできなかった技や身法ができているとふと気づいた時、「これはいける、チャンスだ」とよりどころにして行動してきた。例えば、その技をメインとして講習会を開いたり、その技の動画を元に生徒募集動画作って、生徒を募集したり。

今思うと、その時は今より一層未熟だったので、生徒さんの前で失敗したり、答えた内容に整合性がなく矛盾を生じたり・・・、そんなミスばっかりだった。

しかしその失敗が、今自分に足らないものを教えてくれる。身をもって教えてくれるその教授方法は、精神的にはかなりこたえる教え方。ふと「やめてしまうか」と思う時もある。しかし「やめてしまったら、全国指導旅で逢って伝えるはずだったみんなに逢えない」と考えて思いとどまった。

本当に心からそう考えていたし、今でも思っている。

今水式門のホームーページには、多くの解説動作がある。そのなかで、通信受講生をとって教える目的で作成している自分が納得できる動画は、ほんのわずか。

圧倒的に、通信講座教材として耐えうることができないものばかり。それは無駄だったのか。それらの動画を作成して、失敗作が試作と化したから、次に作る動画の質が少しづつ上がっていく。だから決して無駄になってない。

その意味もあって残してある。その軌跡があるからこそ、今の場までたどり着くことになった。

指導動画を作成をし続けてきたから、どこでつまづいたのかが分かり、それが弱点として認識され、次の動画に活かされ指導動画作成技術が上がってきたのだ。何かしらの理由をつけて行動しなかったら、作成技術は昔のままで何らの変化も、無かっただろう。

いきなり動画作成から入ったが、これは、対多人数遊撃戦の練習でもまったく同じこと。

「絵空事」「漫画や映画の中だけの話」と決めつけて行動しなかったら、そこで完全に終わっていた。

自分が対多人数遊撃戦の習熟を願い、行動し始めた時も、そこに詳しい方法を示した書籍やサイトは無かった。そのような中での模索ゆえ、多人数組手中で試行錯誤するたびに徹底的に打ちのめされた。

これは武術の経験などほとんどない仕事仲間が相手の時の話。武道や武術の経験を持つ人たちが相手だと、10秒ももたず打ちのめされたり、掴まれたりした。

きっと私の所属していた会の仲間たちは、私が倒されているイメージしかもっていないはずである。地面に倒され、時には疲れて勝手に倒れ込み、砂だらけになっているイメージしかないはずである。

しかしそれを「恥」だと思ったことはない。人に教える立場となっても、同僚や門の生徒さんたちの前で失敗してできなくても、それはいい機会ととらえ、その都度できるように努力してきた。

できなくて大したことないとして、去っていった人もいる。それは寂しいことだが、それも行動したことで経験できた貴重な財産であり、そこから何かを生み出すことができたため、良かったと、思っている。

自分の描く「理想の状態」になってから行動しようと考えた時もあった。しかしその時は今まで一度も訪れたことがないことにある時気づき、もうそんなためらいは止めてしまおうと思った。

極端な話、練習をしていて、ある一つの新技をマスターしたと思ったら、それを材料に発信したり、多人数組手で堂々と試したりした。もちろん、うまくいかない。うまくいかないけど行動はしたため、その行動から、新たな展開が生まれたりもした。

この「新たな展開」こそが、きっと思いがけない世界へと私を連れて行ってくれるのだろう。実際、今の自分の位置も、昔では想像できない位置。

八卦掌練習し初めに、家族に撮ってもらった動画の中で、「大したものでしょう」と笑っている自分が居た。今撮影した動画と見比べてみると、天と地ほどの差がある。当時はあの動きで、よかれと思っていたのだろう。そこまで自分は進んできたのだなと思った。

当時のその動画の中で「(この動画も)使うんでしょ?」と問われたので、「そんな、これを人に見せるなんて」と私。

「せっかく撮ったんだから。そんなこと関係ないのに。」と話が続いたのをハッキリと覚えている。そこまで撮り続けておけばよかった。本当にその通りだね。その通り。なんて言い得てるんだろうか。

きっと今も同じことを言うだろうから、その言葉を胸に、ささやかな機会あるごとに、どんどん行動していく。

思い立った時に、すぐ練習を始められるような役立つ動画、ぜひ待っていてほしい。

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なぜ君にとって対多人数遊撃戦は「実現可能」な戦法なのか

強くなりたいと願い行動し始めた君は、毎日少しづつ、自分の身体が変わっていくことを実感している。

この前までできなかった行動が、ある日ふと、できるようになっていることに気づく。

自分で撮影をしてみたら、ダメだと思っていた動作が、手本動画の動きとほぼ変わらなくなっていた。自分は、結構うまくなっているんだな、と否が応でも気づく。

練習時「ここ!」という場面で、スッと手が出る。身体が崩れた状態でも、手が届くならば、自然と打っている。考えて見れば、こんなこと、以前では想像できなかった。

今ならば、後ろから突然敵が襲ってきても、その場から身体を移動させ、なんらかの行動をとることができる。この前は、無意識に手が出た。この前は身をひるがえして、敵中から外回りで逃げおおせた。

今ならば、「対多人数遊撃戦」がリアルに感じられる。この前は「私にできるのだろうか」と不安だった。他人の「そんなこと妄想であり、できっこない」に気を落とし自信を無くし、そう感じていた。

ではなぜ、他人には妄想で、君にはリアルに感じられるのか?

理由は簡単。君が、対多人数遊撃戦と向き合い、簡単ではないその技法を己の身体で実行するための準備を、日々積み重ねているからだ。

準備を積み重ねていると、日に日に、遊撃戦を実行するための身体的土台が出来上がってくる。

足の運足がスムーズになった。以前はここで足を上げることができず、足を軸足に引っかけ、動きが止まっていた。今は、軸足を越えて自分の望む場所にもう片方の足を移動させ、そこから新たな遊撃戦を展開できる。

右方面に居る敵に穿掌で突撃攻撃をした後、すぐさま後方の敵へ攻撃を仕掛けたかったが、昔はそこで慣性が働き動きが止まって、敵に捕まっていた。この弱点に気づいてから、慣性の働いた状態から転身しながら穿掌を放つための練習を重ね、今は当たり前にできるようになった。これは、使えるぞ!

君のその日々の積み重ねが少しづつ厚みを増し、以前は想像できなかった場所へ君を自然と連れていき、そこで君は初めて気づく。

「いつの間にかこんなこともできるようになっていたんだな。今なら、敵に捕まらないで戦う自分が想像できる。できるかもしれない・・・・いや、きっとできる!」

君がそうなっても、他人はこう言う。

「そんなこと、漫画の世界じゃあるまいし、できるはずない。生兵法は大けがのもと」

以前はここで「やはりそうなんだ、絵空事なんだ」と落ち込んでいた。しかし今はすぐさま、自然にこう答えていた。

「そう?実際動かすことができるし、できるよ。なんなら見せてあげようか?この動きのことだろう?」

私の例を言おう。記録できないくらい徹底的に繰り返し、リストアップした「できるようになったら便利だけど苦手パターン」を知らないうちに克服していた。

以前はここで動きが止まっていたが、今はすぐさま、穿掌を打ちながらその場からエスケープできる。多人数想定組手でも捕まらない。当てられない。そうなったのに、他人からの言葉は変わることがなかった。

決定的な違いは、行動した者と行動してない者の違い(行動してないから悪い、という意味ではない)。他人にとっては、対多人数遊撃戦は、絵空事の妄想であるため当然実現させるための準備をしない。だからずっと妄想や絵空事のままなんだ。

君は苦労しながらもその場にとどまり、コツコツと土台を築きあげて来たからこそ、対多人数遊撃戦がリアルに感じられるんだ。

リアルに感じられる→やる気が出てくる→引き続きルーティンを繰り返すのみ→知らないうちにできるようになっている場所にたどり着いている。なのです。

第三者に、言われたことがある。

「○○○○(有名道場)のベテランたちが、ある日、一日を使って、多人数戦の組手を徹底的に練習したんだって。その猛者たちでも結局できるようにならなかったらしいぞ。そこで悟ったんだって。こりゃ無理だって。だからお前のやっていることは無理だと思うぜ」

「そう?で、その人たちは、それ以後も練習し続けたの?」

「だから!無理だと悟ったんだから、もうそんなことしないだろ。話をちゃんと聞けよ。」

「私は、今もずっとやり続けているが、おかげで、できないこともできるようになったよ。」

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