今日の題材を語る者として。語るに足る資格を有する行動をしている者としての証拠を示す。今日9回目の挑戦をする。自分の中で、9回の失敗などまだ少ない方である。講習会などは、すでの60回以上も失敗しているからだ。
だからいつも通り、しかし何かしら前と少しやり方を変えて、今回も進む。
通信講座部「護身術通信講座科」の再スタートだ。決断するとき、自分は一人で決めた。そして迷わず決めた。
言っただろう?私は、全国に転掌の、命を賭けた囮護衛の技術を伝える、と。言ったことをは守るさ。これからも、ドンドン試す。だから君よ、今日の記事をひとまず読んで欲しいんだ。
努力や頑張りが否定される時代だ。でも、繰り返さずして、物事は洗練されない。それは、失敗の中で得た、一つの真実だった。
・・・・・君が取り返すために戦う時、その生活のなかに、立ち向かうための努力の時間を入れた時、きっと孤独になる。
それはほぼ間違いない。周りに人が居ても、いなくても、孤独になる。
私が戦いを決意した時、周りに少しの人が居た。しかし間もなく私は敗れ、そして一人になった。
なぜ拳を握って一人打つのか、なぜ走って走って走り続けるのか、誰にも言うことはできなかった。もちろん親にも。友達?そんなもの、戦いを決意する前から、一人もいなかったしね。
変人だ、逃げるだけの意気地のない奴だ、先生に対する態度も知らない、問題児だ。そのくせ、声を上げる勇気もないのか?ありとあらゆる暴言を浴びせられたが、それでも、自分がしてきたことは、練習と、窓の外を見続けることだった。
孤独だった。それ以後も、友達など一切できなかった。本当のことを、言うことは誰にもなかった。同級生の、特に女子には、本当に嫌われていた。
いじめを題材にした漫画やアニメなんかを見ると、本当に一人、というシチュエーションが、意外と少ない。理解者がいることの方が、極めてまれなのに。ほとんどの場合、いじめられたり、不利な方に、理解者などいない。私は完全に理解者がいない方だった。
ある時を境に、それは当たり前となり、そしてそれが今度は誇りとなり、練習に一層熱が入った。不思議な転機だった。
だから練習は、いつも一人だった。いつも一人だったから、集中できたし、いつも一人だったから、一人で技術を上げるための方法を、常に考えていた。
今スポンジ支柱を使った練習をしているが、あれは、何度も何度も練習方法を考察し、考え出した、一つの「最善」である。間合いの感覚とつかみ、かつ、実際に打つ際の体幹力強化のために利用している。当然、完璧な練習方法ではない。
でも、多くのことを得た。それは、弱者護身の八卦掌を指導する指導者がいない孤独の中で、もがきながら見つけ出した工夫の結晶である。指先第一関節部分だけで、実戦時の思い通りにならない状況のなかで、確実に頸部を突くための、一つの答えである。
一人練習の際、周りから人は襲ってこないけど、徹底的に後方スライドで身体を移動させ身体に負荷をかけ、流れていく景色の中で、目の中に入ってきた支柱の頸部部分を、正確に突く。それを何年も何年も、一人でやり続けてきた。
しかし、対人で行うと、それでも外す。だからまた、家に帰って、いつもの場所で、一人で繰り返す。何度も、何度も。毎日、毎日。
これは練習の苦労話ではない。それが現実だった。動き始めた時、動き始めの高揚感が消えた時、ふと思う。
こんなことをやって、何になる?あの人をいじめた連中は、何の制裁も受けず、あんなにゲラゲラと笑ってるじゃないか!?
でも実は、孤独こそが当たり前だった。人も皆孤独だから、君も耐えろ、と言わない。そんな言葉は、私も本当に嫌いだった。そうでなく、孤独だからといって、君は間違ってない、ということだ。何か大きなことを成す時、孤独は当たり前となる。
きみにとって大きなこと、それは「取り返すこと」だ。
それはとてつもない大きな挑戦だ。そしてそれを成し遂げたら、君はこれからの人生で怖いものが無くなるくらい、大きな見返りが来る。
そんな壮大で悲壮な挑戦に、立ち向かってる君は、間違いなく天才だし、孤高だし、とびぬけた存在なんだ。
天才や孤高の士は、いつの時代も理解されない。理解されないから孤独だ。
私の技術を信じ、ついてくる弟子も、いつも私に生きづらさを語る。求道者の筆頭門弟、鬼っ子の一番弟子、人気に迎合せず、己を磨き続け能を隠す三番弟子、金髪の小娘と言われても、あえてそれを貫き誇りとする、中国地方の雄。
皆、人と違った道に価値を見いだし、進み続ける君の先輩だ。君も孤独なら、私たちと同じだ。きっと君も、天才だ、君の道を貫く天才だ。
誰にも言えなくて、孤独に戦っている君へ。苦しいなら、とにかく歩いてごらん。ゆっくりでいいよ。速くなくていい。
休んだ方がいい、と言わないのは、君が周りと違う天才だからだ。天才に対しては、凡人と違う言葉で接するのが、最低限の礼儀。
私は、苦しい時、孤独に襲われた時、何も考えられなかったから、何も考えなくてもできる練習をして、時間を過ごしていた。
単換掌ばかりしていた時もある。私の好きな、転掌刀術・撩陰刀を、目いっぱいに使って、練習し続けたこともある。
そして、何も考えないでやり続けたこれらの練習は、全く無駄にならなかった。むしろ、いつまでも心に残り、私の財産となった。
苦しいなら、水式門のホームページをみてごらん。直すべきところだらけだろう?それでも私は、この世に、転掌式の技術体系を提唱した。
人の反応など、どうでもいいのだ。自分が信じたならば、それでいい。
私は、今から、再び今日の戦いに出る。