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転掌という形で、大きな意思が、必要なものを届けた。

清朝宦官・董海川先生が、王宮内で立身出世を達成する野心の元に生まれた八卦掌原型の護衛武術「転掌」。

現在国内外で行われている八卦掌は、そのほぼすべてが、他の武術と同じの、屈強な男性向けの技術体系で構成された、敵と至近距離で打ち合い、倒して勝つための八卦掌だ。

弊門の伝える「転掌」時代の技法に、疑問を持つ人間もいる。確かに、中国国内の入手可能な有名先生の著書は、そのすべてが近代の八卦掌である。この体系が、昔のままの体系だと勘違いしても致し方ない。

しかし冷静に考えれば、すぐにわかるはずだ。近代の激しく打ち合う八卦掌の技術体系が、清朝の御用武術として採用されるだろうか。

宮中内は男性禁制の場である。男性で入ることができるのは、清朝王族男子と、宦官(かんがん※去勢された身分の低い男性官吏)だけである。董海川先生も、宦官であった。

董先生は、武術の経験があったが、その技術体系では宮中内御用武術として採用されない。男子がいないのに、男子使用想定の技術体系武術など、採用されるはずもない。よって「宦官・女官でも王族を護衛することができる技術体系で構成された武術」を、作る必要があった。

弱者使用前提技術体系無くして、八卦掌なし。

なぜなら、宮中内御用武術として採用されなければ、転掌は有名とならなかった。有名にならなければ、八卦陰陽理論をあてつけることができるような知能の高い学のある弟子は門に入らなかった。よって、弱者使用前提は「八卦掌」になる前の必然の歴史だったのである。

しかしこれは皮肉でもある。有名になったから、男性修行者が董先生の元に集った。彼らが転掌をより発展させるため、他流試合で勝つことができる打ち合いの技術体系を構築していくことで、弱者使用前提が薄れていったのだ。

転掌が有名になることで、転掌がその技術体系と名称を変えていくことは、避けがたい運命であったのだろう。大きくならなければ、四大門派にならず、修行者も少ないままであった。

清朝粛親王府で宮中内御用武術として採用されたことは、以後の転掌の運命を分かつ大きな転機であったのだ。

転掌技法は、普通なら御用武術として採用された時点で、そのほぼすべてが失われるはずであった。

しかし武術に関わる大いなる意思は、それは許さなかった。大げさではない。これは奇跡の始まりであったのだ。私は、転掌技法が私に伝わるまでの経緯を考えると、大きな意思の存在を、感じずにはいられない。

八卦掌について、誰にも負けないくらい、向き合ってきたとやっと確信した今だから、このブログを書くことができる。

大きな意思は、転掌技法を、私の師の祖先に届けた。

その技法は、伝わった土地の環境もあり、他の武術との技術比べから無縁な中ではぐくまれたがゆえ、変わることが無かった。

変わらないまま、その技法を真に必要としていた天才の少年に伝わった。わたしである。天才とは、最強、という意味ではない。大きな意思に選ばれた、特別な存在である。

少年は、その技法を必要としていた。その少年が必要だった時に、その技法はその少年の近くになかった。

少年が守るべき人との約束を果たすことができず、悔恨の中でとりつかれるように強さを求めている中で、その動機を知らない楊師から、少年が約束を果たすうえで必要だった技法が、伝えられた。

師の技法は、弱者使用前提の稀有な技術体系で貫かれた「転掌」であった。そこに大きな運命、大きな意思による大きな操作を感じるのだ。

今の私は「身の程を知れ」という言葉が大嫌いである。最も嫌いな言葉の一つである。多くの人間の無限の可能性を奪う、悪魔の言葉である。その言葉を、何度も何度も、何度も・・・言われてきた。

しかし私は、この運命的なめぐり合わせだけを励みに、己の伝承する技法を磨き、伝えてきた。

映画のような戦い方をしないため、すぐにサイトページを閉じられる。「逃げてるだけ」「走ってるだけ」「いつ攻撃するの」「また水式門?ここはいいや」と、初心者にもならないほどの素人から、笑われたこともある。

たまに見学・学習しに来る男性志願者も、単換掌の型を覚えて少しできるようになると、何かを悟ったかのように来なくなる。もうこれで練習できる、これでいいや、と思ったのだろうか。

去って言った者の中で、相手の猛然とした攻撃を単換掌でもって護身することができる技術を身につけた者は一人もいない。皆、力でかなわないときの一つの対処法を、知っておきたいだけの者ばかりである。よくあるのが、午前だけ来て、単換掌を教えると、用事が・・・と言ってさっさと帰っていく。型さえ覚えてしまえばいい、と考えているのだろうか。

今までの多くの工夫をしてきた。再度習いに来ないのは、私の伝え方は悪いのでは?と考えたからだ。※改めて確認のために言うが、技法を疑ったことは一度もない。

しかし、身を入れて練習する気のない者に、何をどう工夫しても同じである。三十数年の歳月でもって、やっとのことでここまで来た技法を、どうして初めて来た、2時間体験して程度のものが、その拳法の有益性を知ることが出来ようか。

現代は、「なんとか○○をしてもらおうと思って○○の試みをする」までして、その道を極めた人間が、初心者になんとか来てもらおうとして、門戸を開いている。私はそれがどうしても理解できない。

転掌式八卦掌の修行は、移動し続ける息の上がる練習が多いため、持続し続けるための明確な目的が必要となる。

気まぐれな通りすがりの人間も同然の、何度言っても、何度アプローチしてもこちらに近寄ってこない人間に。私は、そのような通りすがり同然の人間に、必死になって転掌のすばらしさを説いていた。

水式門軍師門弟曰く、「なんの意味もないこと。もうこれからする必要もない」。

技法を貫け。技法に誇りを持て。あなたの技法は、これまでも同じくこれからもずっと必要である。

一番門弟曰く「少なくとも、あの時、少年はその技法を必要としていた。それが偽りでないから、今でもずっと、毎日練習しているのでしょう?ここで止まったら、あの子が取り返す時、間に合わないかもしれない。止まって遅れたら、止まったことを悔やむかもしれない。だからできることは、今までと同じく、繰り返しを続けること。進み続けること。届かない人間には、何をやっても届かない。必要としてないのだから。」

運命を与えられたと確信している。ほぼ消えかかった転掌技法を、この世に再び出すために、色んなものが流れてきて、時に消えていったと思っている。

消えたものが、あまりに大きすぎて、大きな意思なるものを、憎んだ時もあった。

でももう、それらは取り返すことができないのだ。それが正解であったと認めることは絶対にしたくない。転掌技法を伝えるために、失われたものが失われたと、認めたくない。そんな残酷なことを考えたくもない。きえていくものが無念すぎる。自分は残って、さまざまなことを今でも感じることができるから、こんな勝手なことが言えるのだ。だから決して、転掌の再興ごときのためになんて認められない。

・・・できることは、転掌技法を、全国の必要な人に届けることだけだ。辛い考えを頭から打ち消すかのように、これからも、休まず進み続ける。

それしかない。死ぬまで、身体が動く限り、この道を進むのだ。

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追いつかれるので単換掌を。武器を持っているから何か持て。

何を言っているのかというと、転掌式八卦掌の前提を言っているのである。

練習時あれほど動き続けるのは、振り切るための速度・持久力だけを養っているのではない。対多人数移動遊撃戦時、どれほど敵のいない場所に移動し続けても、どれほど虚をついた対敵身法をし続けても、いずれ必ず追いつかれる。

その時のために、あれほど、単換掌を練るのである。あれは追いつかれた時の保険ではない。対多人数移動遊撃戦は、こちらにとって圧倒的に不利で、相手にとって極めて有利な状態だということを忘れてはならない。あれは高い確率で起こる事態に対処するための、必須の対処法なのである。だから、必ず、気が遠くなるくらい繰り返すのである。

私も、弊門掌継人も、皆同じ道を通ってきた。

よって、単換掌を繰り出すこともなく、戦いを終わらせることはできないと考えよ。私は何度も、武門以外の人間と、例えばジュースなどを賭けて、忖度なしの移動遊撃戦練習をしてらもらったことがある。

当然、単換掌で打つことはできないため、一定時間過ぎると、必ず捕まる。しかし推掌で推し出した際、相手に少し止まってもらうことを約束すると、なんとか逃げ切ることができる。

弟子に指導する際、単換掌などの対敵技無しで、練習をさせる。それは、頭をまっすぐ向けて軸を作り移動することの重要性と、敵に追われている際複雑な技法ができないことを、身をもって体感させるためである。

そうすることで、抓地牢の重要性・頭をまっすぐ向け続けることの意味、そして単換掌しか多人数戦時にできないことを分からせるのである。

単換掌などを一切使うことができないと、逃げるだけで必死で息も上がり、とても多人数戦なんてできないと感じ、ショックを受けるものだ。私もそうだったし、水式門の掌継人たちもそうだった。

そこで、一番シンプルな単換掌を、とにかく極めようと考えるのである。

それと連動して、相手が武器を持っていた時も経験させる。そうなると、素手技法である単換掌では、対抗できないのである。

手を敵に差し出した際、敵の刃物によってその手を斬られてしまう。ではどうすればいいのか。

転掌は、その事態に対処するため、習得すべき術理を最小限にし、その術理であらかたの身の回りの物を扱えるようになる武器術を伝えた。

転掌において、伝説の武器は一切出てこない。そこらへんにある棒や、そこら辺にある木の切れ端、竹などが想定されている。

いい例が遊身大刀である。この武器術に、八卦大刀は想定されていない。物干しざお、竹、長めの木、などが想定されている。よって柄の部分を限定する概念はない。反対側もへっちゃらに持つ。そしてなにより、手の中を滑らせない技法で構成されているため、ある程度の荒れた長棒も扱うことができる。

これは、身の回りの物を使うことができるように・・・が最も言いたくて考えられたのではない。とにかく物を持って対抗せよ、と言っているのである。素手によって対抗するのは最終手段だ、とまで思い込んでもいい。

つまり、相手が素手でも、こちらが長棒を持つことができるなら、とにかくそれを持って振り回し、近づく前に滅多打ちにして身を守れ、と言っているのである。何も卑怯じゃない。それこそが生存第一の昔日の護衛武術である証拠なのである。

だから、それが実行できるために、常に何かを持つことだ。何も持ってないなら、Tシャツを振り回せ。ベルトを振り回せ。もちろん斜め後方スライドしながらだ。面前でとどまっていたら、モノを持っていてもすぐに斬られる。

何の神秘性もない解決策ゆえ、そこで落胆し去る男子修行者が複数人いたことを思い出す。でも、現実を見据えるなら、ぶきを常に持ち続けることは、最高の対抗手段と言える。

女性なら、特殊警棒を持ってもいい。男性だって、職種上危険なら、持つこともいい。道具を持つこと。持つ道具を定めたら、その道具となるべく同じもので、練習をすること。

振り切って逃げきることにこだわるな。どうせ無理だから、単換掌を徹底的に練習せよ。そして武器を持っているのだから、常に何か道具を持て。そしてそれで実際に練習せよ。

その単純な流れを実行・練習することで、あなたの有事における生存確率は、大いに上がるだろう。それこそが、命を賭けた護衛術・転掌の伝える師伝・真髄なのだから。

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軍師曰く「北陸本部はどこに設置する?」

自分だけで判断できないこともある。

ことに、地理的な視点にたった場所の選定については、その土地の事情を知っている者や、地理的位置における戦略の要因について、分析の出来る者の協力・アドバイスが必要となる。

当然、私はそのようなことに明るくない。そこで、門弟の一人に、そのことをよく尋ねる。

彼女は専門家ではないが、その分野に関する勉強は、好きの気持ちから、ずっと続けている。戦略論・兵法・地政学などが大好きで、高校時代は、それが高じて防衛大学校の入試にも合格したほどである。もし防大の試験が兵法とかだったら、首席で合格するんじゃないの?と思うくらい、兵学の勉強が好きだった(当時の彼女の愛読書は、ジョミニの戦争概論)。

現在は中国地方で、のんびりとしている。趣味は、備中高松城周辺で、戦略の勉強をすること、といってはばからない変人である。北陸富山での活動を再開してから、気持ちがこちらに向くようになって、何かと協力をしてくれるようになった。

「北陸地方最大の都市は、金沢だよ」

と言い出したのは、ここ最近のことである。当門弟は、自分が富山に北陸本部を置くことを認めつつも、金沢を抑えることは、譲らずに話す。

「富山は確かに、そこを通らないと東西に移動できない。岐阜からの人の流入も多少期待できる。しかし新潟はどうか?」

多くの新潟人口は、200キロ以上先に集中する。途中、天険親不知があり、かつ、新潟市から富山まで抜けるのは、いまでも果てしない8号線ルートが想起され、精神的な防波堤となり、難所である。

新潟から人はなかなか呼ぶことはできない。富山と新潟では、文化圏が違うのが何よりの証だ、と説明する。

金沢は、北陸地方最大の都市であり、金沢から離れている北陸地方の人間にも、訪問の意欲を湧き起こさせやすい。メディアに取り上げられやすく、注目度が高い。水式門の格式は厳格で敷居が高いため、人が集まる場所で、広く知らしめ変人に出逢う確率を高める必要がある、と説く。

「全て私の分析であり、これをもって性急に判断する必要はない」と言いつつも、「今の時点で富山に北陸本部を置くと決めるのも、性急である」と熱く語ってくれる軍師みたいな門弟だ。

そんな当門弟が、富山に帰郷する可能性を示唆している。

表向きな理由は、修行のし直しである。しかし本当の理由は、水式門の陰の参謀となりたい、との気持ちである。嬉しい。

戦略的思考に長けた彼女らしい、素直で優しい動機である。岡山倉敷に拠点を置くことを考え、しばらく連絡をとりあって行動してきたが、この気持ちもわかる。門弟は、皆自由である必要がある。今後の動向に注目している。

もし本拠地が、富山もしくは石川に設置される際、彼女の協力が間近で得られるなら、それはとっても心強いと感じた。彼女自身、八卦のマスターでもあるからだ。

水式門草創期、まだ梁派の伝承を示して問い合わせもあったころ、練習後に氷見の比美乃江公園にて、未来の門構造について語りあうのが楽しかった。現実的に見ても、不可能と感じなかった。どのような状況下でも、少しの可能性があれば、そこに理由と活路、目的と中間目標、そして具体的方策を即座に見い出す能力を持っていた。さすがである。

当門弟は、その場にて具体策の実行手段すらも提示するため、こちらも具体的行動をリアルに感じざるを得ない。

「ここからは、先生が動くか動かないか、だよ」

と名参謀に言われたら、もはや動くしかあるまい。

現在は、問い合わせも激減し、苦しい中で、厳しい現実ばかりが浮かぶ。しかし当門弟は、このまま水式門が消滅することなど、微塵も考えていない。近い未来、多くの人間に水式門の伝承する転掌式八卦掌が広まり、全国へ展開することを確信している。

彼女の頭の中では、広まるかどうか、ではなく、広まった時にいかに運営していくか、に焦点が定まっている。

「広まって当たり前。その後どうするかの方が、興味があるから。だからここにいるのよ」

彼女はそう言って、広めることに頭を悩まさない。そして躊躇なく行動に移す。

そんな当門弟と行動をしていると、すでにかなったかのような気分となり、練習にも熱が入る。

彼女が言っていた、逆転の発想の一つ、八卦掌水式門を女性専用中国拳法門にする、という案も、真剣に考える時かもしれない。

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何度も打たれ強くなった鉄の意志だから

うまいこと言ってあげようか

意志の強さは「鉄」だね、そう「鉄の意志」。

強いってこと?それだったら、はがねの意志、とかでもいいんじゃない?鉄ってさぁ、燃え盛る火の中で、何度も何度も打ちのめされるんでしょ?そして強くなるんだよね。私はその例を、そばで見てきた。

何度も何度も打ちのめされるには、打ちのめされるたびに、へこたれて脱落してたんじゃ、打ちのめしようがないよね?私って、何度も打ちのめされたこと、知ってるのよね。

いっつも何か為そうとするときに、大きな邪魔や困難がやってきて、いっつも箸にも棒にもかからず、敗れ去ってるの。でも、いっつも、ここで終わるわけにはいかない、自分の苦しみなんて、そよ風だ、なんて言って、毎日、台風の日も、出かけてる。

これから先も、ずっとこのままかもしれないね。下のまま。どこにも行けないかもね。でも、一つだけわかることは、毎日の積み重ねは、これからも続いていくんだろうなぁって、こと。

きっと、本当に身体が動かなくなるまで、続くんだろうなぁ。練習が途切れるのは、きっとその時までないのかも。他の人なら大げさでも、あなたならあり得ることね。

見てみたい気もする。でも正直、あまりにも行き過ぎないでねって、言いたくもなるの。

鉄って、はがねにはならない。強くなっても、ある一定の力の下では、もろいものよ。曲がってしまったら、なまじ強いだけに、元に戻らないじゃない。

そこまでいかないでね、それは見たくないわ。

戦う時、おそらく孤独。大丈夫。苦しいけど進むがいい。

今日の題材を語る者として。語るに足る資格を有する行動をしている者としての証拠を示す。今日9回目の挑戦をする。自分の中で、9回の失敗などまだ少ない方である。講習会などは、すでの60回以上も失敗しているからだ。

だからいつも通り、しかし何かしら前と少しやり方を変えて、今回も進む。

通信講座部「護身術通信講座科」の再スタートだ。決断するとき、自分は一人で決めた。そして迷わず決めた。

言っただろう?私は、全国に転掌の、命を賭けた囮護衛の技術を伝える、と。言ったことをは守るさ。これからも、ドンドン試す。だから君よ、今日の記事をひとまず読んで欲しいんだ。

努力や頑張りが否定される時代だ。でも、繰り返さずして、物事は洗練されない。それは、失敗の中で得た、一つの真実だった。

・・・・・君が取り返すために戦う時、その生活のなかに、立ち向かうための努力の時間を入れた時、きっと孤独になる。

それはほぼ間違いない。周りに人が居ても、いなくても、孤独になる。

私が戦いを決意した時、周りに少しの人が居た。しかし間もなく私は敗れ、そして一人になった。

なぜ拳を握って一人打つのか、なぜ走って走って走り続けるのか、誰にも言うことはできなかった。もちろん親にも。友達?そんなもの、戦いを決意する前から、一人もいなかったしね。

変人だ、逃げるだけの意気地のない奴だ、先生に対する態度も知らない、問題児だ。そのくせ、声を上げる勇気もないのか?ありとあらゆる暴言を浴びせられたが、それでも、自分がしてきたことは、練習と、窓の外を見続けることだった。

孤独だった。それ以後も、友達など一切できなかった。本当のことを、言うことは誰にもなかった。同級生の、特に女子には、本当に嫌われていた。

いじめを題材にした漫画やアニメなんかを見ると、本当に一人、というシチュエーションが、意外と少ない。理解者がいることの方が、極めてまれなのに。ほとんどの場合、いじめられたり、不利な方に、理解者などいない。私は完全に理解者がいない方だった。

ある時を境に、それは当たり前となり、そしてそれが今度は誇りとなり、練習に一層熱が入った。不思議な転機だった。

だから練習は、いつも一人だった。いつも一人だったから、集中できたし、いつも一人だったから、一人で技術を上げるための方法を、常に考えていた。

今スポンジ支柱を使った練習をしているが、あれは、何度も何度も練習方法を考察し、考え出した、一つの「最善」である。間合いの感覚とつかみ、かつ、実際に打つ際の体幹力強化のために利用している。当然、完璧な練習方法ではない。

でも、多くのことを得た。それは、弱者護身の八卦掌を指導する指導者がいない孤独の中で、もがきながら見つけ出した工夫の結晶である。指先第一関節部分だけで、実戦時の思い通りにならない状況のなかで、確実に頸部を突くための、一つの答えである。

一人練習の際、周りから人は襲ってこないけど、徹底的に後方スライドで身体を移動させ身体に負荷をかけ、流れていく景色の中で、目の中に入ってきた支柱の頸部部分を、正確に突く。それを何年も何年も、一人でやり続けてきた。

しかし、対人で行うと、それでも外す。だからまた、家に帰って、いつもの場所で、一人で繰り返す。何度も、何度も。毎日、毎日。

これは練習の苦労話ではない。それが現実だった。動き始めた時、動き始めの高揚感が消えた時、ふと思う。

こんなことをやって、何になる?あの人をいじめた連中は、何の制裁も受けず、あんなにゲラゲラと笑ってるじゃないか!?

でも実は、孤独こそが当たり前だった。人も皆孤独だから、君も耐えろ、と言わない。そんな言葉は、私も本当に嫌いだった。そうでなく、孤独だからといって、君は間違ってない、ということだ。何か大きなことを成す時、孤独は当たり前となる。

きみにとって大きなこと、それは「取り返すこと」だ。

それはとてつもない大きな挑戦だ。そしてそれを成し遂げたら、君はこれからの人生で怖いものが無くなるくらい、大きな見返りが来る。

そんな壮大で悲壮な挑戦に、立ち向かってる君は、間違いなく天才だし、孤高だし、とびぬけた存在なんだ。

天才や孤高の士は、いつの時代も理解されない。理解されないから孤独だ。

私の技術を信じ、ついてくる弟子も、いつも私に生きづらさを語る。求道者の筆頭門弟、鬼っ子の一番弟子、人気に迎合せず、己を磨き続け能を隠す三番弟子、金髪の小娘と言われても、あえてそれを貫き誇りとする、中国地方の雄。

皆、人と違った道に価値を見いだし、進み続ける君の先輩だ。君も孤独なら、私たちと同じだ。きっと君も、天才だ、君の道を貫く天才だ。

誰にも言えなくて、孤独に戦っている君へ。苦しいなら、とにかく歩いてごらん。ゆっくりでいいよ。速くなくていい。

休んだ方がいい、と言わないのは、君が周りと違う天才だからだ。天才に対しては、凡人と違う言葉で接するのが、最低限の礼儀。

私は、苦しい時、孤独に襲われた時、何も考えられなかったから、何も考えなくてもできる練習をして、時間を過ごしていた。

単換掌ばかりしていた時もある。私の好きな、転掌刀術・撩陰刀を、目いっぱいに使って、練習し続けたこともある。

そして、何も考えないでやり続けたこれらの練習は、全く無駄にならなかった。むしろ、いつまでも心に残り、私の財産となった。

苦しいなら、水式門のホームページをみてごらん。直すべきところだらけだろう?それでも私は、この世に、転掌式の技術体系を提唱した。

人の反応など、どうでもいいのだ。自分が信じたならば、それでいい。

私は、今から、再び今日の戦いに出る。

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なぜ八卦掌では君でも達人になることが出来るのか

特別な身体的才能がいらないからである。

バク転する技術も要しない。深淵な持久力もいらない。

人間が、うまれてからの努力で手にすることができる範囲の能力(後天的獲得能力)だけで、八卦掌の達人条件身体能力を確保できるからである。

膨大な筋力も必要ない。動じない精神力も要しない。練習の過程で身につける程度の精神力で十分だからである。

君の練習次第なのだ。

八卦掌的にいうならば、八卦掌の達人としての最低現の要素は、すでに君に備わっている。あとは自分のおもわくどおりにその要素を利用するだけ・・・なのである。

君は、水式門の いじめ護身部~取り返すための技術解説 部分の技術を、まず始めてみて試すといい。頭でかんがえていても仕方ない。行動をし体験することで、いじめ護身部にて説明された、歩き方 すらまともにできないことが分かるだろう。

君が体格に恵まれているならば、いじめ護身部に書かれた内容は不要となろう。弱き立場にて何度も強者の思惑にほんろうされた記憶があるならば、この成立当時の『転掌』技術を学ぶ価値が大いにある。

水式門の伝承する原初八卦掌(楊家伝転掌式八卦掌)では、特に大事な者は以下の点である。

  • 抓地牢(そうちろう)
    • 基本姿勢
    • 対敵イメージ移動
    • 翻身旋理と刀裏背走理を土台とする単換掌の術理
    • 単換掌の術理を前に現れた敵に応用する順勢掌の術理

    これらを、難しい言葉を使わないで、いじめ護身部で示した。

    ちゃんと膝部分(足部分)もさらして演じているため、大いに参考にしてほしい。

    足部分(膝周辺部分)の使い方は、移動武術の極意といってもいい。もし足部分を示さないで「指導動画」と言っている者があるならば、そこの道場は止めておいた方がいい。

    転掌式の八卦掌は、習う技術が少しである。しかしエッセンスのみの技法である。

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