やめない。人が来ない以外全てうまくいってる。君も進め。

新しい科を立ち上げれば、しばらくずっと、人がひとりも来なかったり。

SNSを始めれば、毎日役立ち情報を上げても、フォロワーもいいねも、お気に入り登録も、全く増えない。

そうすると、外野は決まって、もう止めた方がいいんじゃない?と言ってくる。しょせん無理なんだって、と言ってくる。

でも考えてみたら、それ以外のことは、すべてうまくいっている。

たかだか、人が来ないだけのこと。人が来ないのは、自分のせいでもなんでもない。

自分のやっていること、自分の教えていることに揺るぎない自信があるため、なんら問題もない。

むかし憧れ、出来なかったことが、今ではなんら苦も無くできている。これって、振り返ってみるとすごいことであり、当時の自分が今の自分を見たら、圧倒されてしまうだろう。

そんな状態なのに、なんで、たかだか八卦掌に関して私より技術的に未熟な者たちに認められないからといって、落ち込まないといけないのか。

人が来ないのは、世間の人間の見る目がないからである。それか、自分のスタイルが人にとって、何らかの理由で、魅力的に見えないからである。

魅力的に見えない=価値がない=お前が悪い、という構図を押し付けてくる連中がいるが、冗談じゃない。勝手に決めつけるな、といいたい。改善するのは、私ではなく、周りの人間の「見る目」であろう。

実際、批判やマイナス評価の内容を見ると、何も全体像が分かっていない。

過去に、講習会や体験等で、拳法を語りたがる参加者と話してみると、知識だけは豊富だが、技術がそれに見合っているケースは、ほとんどなかった(上手くなりたいと願い参加することは素晴らしいが、先生相手に知識で張り合っても意味がない。知識や誰それ先生のもとで習っている、で護身はできない)。

厳しいことを書いているが、それくらい、自分のなかでは、言い切ることができるほどの積み重ね、バックボーンが備わっているのだ。

そして今も、練習の時間を惜しまない。自分がたどり着いた、本当に必要な昔日スタイル八卦掌において重要な術理・技法のみを、ひたすら繰り返している。

練習が練習のためだけにならないように、実際に使う場面に合わせて、常に実闘をイメージして、繰り返してる。同じ長さの棒を使ったりして。ますます、技術が磨かれていく。

そこまで来ているのに、やめるはずがない。

実際の戦闘において恐怖に打ちかつために必要なのは、積み重ねだ。そして、スイッチを入れることをすぐにできること。

スイッチを入れる方法は、人それぞれである。私の場合、大きな声を上げて手を広げることで、戦うことのスイッチを入れている。

年初に野生動物(猪)の突撃に遭った際は、大きな声が瞬間に出ていた。猪が去った後も、大きな声を上げて、震える身体と衝撃の受けた心ををコントロールした。

スイッチをいれることは、今までの積み重ねがあって、身体がそれなりに動くからこそ。やはり圧倒的な積み重ねが、私の身体を守ったのだ。

人は、猪を棒で応戦し、やり過ごしたことを見るが、私は、積み重ねが我の身体を無意識に動かしたことを誇りに感じた。そのことが一番うれしかった。

君は今、拳法を練習しているかもしれないが、それ以外にも、何か、譲れないもの、好きなものがあるかもしれない。

そのことを、誇りに思っていい。やり始めの拳法しか誇ることがないなら、この「やりかけ」の拳法を上手くなるために行動したことを誇りに思え。

取り返すために動いた。言わせないために動いた。黙らせるために動いた。されるがままの受け入れられない状態から、さよならをするために動いた。

いいじゃないか。その動機が、時に、将来の道筋すらも変える。そのような動機で動いて、とんでもない境地に達した少女もいる。動くと、未来がどうなるかわからなくなる。なんとも心が弾む。

多くの人間は、大人ですらも、頭で考えるだけで行動しない。君は立派に行動し、今向き合っているじゃないか。

それが今、うまくないからといって、なんで他人に批判される必要があろうか。大丈夫だ、私が一番に、君を評価しよう。

「君はよくやってる。技術がまだ発展途上なことを除けば、すべてがうまくいっている」

そう信じていい。なぜなら、それが真実だからだ。

迷わず進め。私がついてる。マスターがついている。

そして、取り返したら、さっさと人を打ち倒すようなくだらない体系に見切りをつけ、本当に君がやりたかった世界へ行こうじゃないか。

きっと楽しいことが待っている。

八卦掌水式門富山本科イメージ

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