愛知拠点の放出は、八卦掌水式門・各都道府県支部館設立への大きな転機となった。
岡山倉敷始動は、昨年末の宣言中の主要内容。必ず実現すること。私の中で、あまりにリアルにその場を描くことができる。必ず岡山に立ってくれると信じる門弟がいる。そんな中で、確信のままに淡々と行動を積み重ねてきた。
途中、能登地震による経済的打撃、それに付随する愛知の拠点の喪失、などもあったが、それらは前に進む際に立ち止まる言い訳にもならない。
こうした方がいい、ああした方がいい、何をやってるんだ、あなたは。そんなことも聞いたが、その都度してきたことは。それは、とにかく前に進むことだった。まさに、清末転掌式八卦掌そのものである。
やるかやらないかだ。ただそれだけと思って、どれだけ苦しかろうと、とにかく前に進んできた。
拠点を失った後の愛知での生活は、すでに慣れた。ブログで宣言した19時間後に、能登地震である。その激震で愛知に回避してきてから間もなく、現在の状況に陥る可能性を察知し、素早く準備をしてきた。
一番一年で不快な時期の真っ只中での拠点喪失だったが、そんなものは年初から分かっていたことだったので、事前に拠点無しでも快適に過ごすことができるように、実験を繰り返してきた。なんとか間に合ったと思う。
今では、部屋を借りて生活することすら、必須のものではなくなった。住民票を置くことができる拠点すらあれば、アドレスホッパーにはならない。
拠点を手放したことによって、難関中間目標の一つであった「全国支部館設置」すらも、具体的行動指針が見えるくらいまでになってきた。愛知拠点があれば、それは快適さと引き換えに重荷となり、機動性が落ちる。今は、どこでも行くことができる。目下の目標は、愛知での仕事からの解放である。具体的指針を見い出し、行動に移したい。
愛知の仕事からの解放よりも大きな山場は、支部館教練長を務めるほどの熱意のある門弟の獲得である。ここが一番難しい。なぜそのように感じるか。
支部館教練である以上、こころがしっかりと、八卦掌に向いている必要がある。
私は、私の伝える八卦掌原型「清末転掌式八卦掌」に当然自信がある。膨大な時間を積み重ねて、やっと思いで形にしたもの。そこらの初心者が私の動きを見て言及することがあるが、たいがい、的を外している。
最近の拳法愛好家は、拳法技術を極めるうえで必須でない知識を知り過ぎている。その浅い知識で、他にほとんど資料のない清末転掌式八卦掌を、他の拳法の特集記事や動画で得た知識でもって、判断しようとする。
私は、必須でない知識など知らない。必要ないから、覚えることもしなかった。拳法関連書籍・雑誌などほぼ見ることはない。必要ないから。
愛好家が知っていることを知らないことの方が多い。よくもここまでしっているものだな、と感心する。しかし、それまでである。「では自分も勉強しなきゃ」とならないのだ。それら雑学で、人を守り、自分を守るための技術は上がらないことを知っているから。今まで通り、練習するだけである。
愛好家はおおよそ、軸ができてない。軸ができてないのに、周辺知識ばかりあって、意識が末端部・枝葉部分にばかり向かい、軸に向かっていない。目移りしたり、素直に指導内容に従わなかったりで、進み・上達が必然的に遅くなる。
水式門の掌継人が女性ばかりなのは、偶然ではない。男性の修行者も多かった。多くの男性が、弊門を叩いた。でも、多くのことをやたらと知っている男性は、軸すらできないうちに、いなくなっていった。
女性は、さっさと軸をつくり、その先の自分の独自性すらもつくって深奥に達した。彼女らも、色んな知識に触れたが、枝葉であることを見抜いていた。
男性修行者は、すでの自分の中で修行の計画ができており、どこか第三者的な立場で接しようとする。深くかかわろうとしないのだ。まず自分の思惑があり、その思惑を通すことを最優先する。
しかし、一つの術理を得るなら、一時没頭する必要がある。渦中に飛び込み、どっぷりつかる必要がある。我が身をその術理の森に投じず、外からつついたって、本質は得られない。真に本質を得るなら、失敗、失敗を繰り返し、悩むくらい没頭し、「ああ、そういうことだったのか」と身体レベルで理解するまでやり込む必要がある。頭で考えて理解(しているつもり)、では、有事に身体は動かない。
また、伝統門の先生であればあるほど、そのような人間に深いことを教えない。
伝統門の先生に、知識をひけらかすなど問題外である。その瞬間に「お客さん」となる。一般的な型だけ教えて帰ってもらう「お客さん」となり、最も大事な術理など、まず指導してもらえない。
運よく入ったとしても、おおよそ伝統門の先生は指導経験が豊富であるため、門弟の練習頻度・熱意が分かるものである。その門弟が練習しているか否か、すぐ分かるのだ。私も、当然よくわかっている。
自分も、今でも門弟と同じく、一修行者である。やっている状態、と、やれてない状態、は、はっきりとわかる。私はその門弟が練習を「やってない」と分かっても、あまり注意しない。優しい先生は、厳しく注意し、もっと気合入れて練習しろ、と促してくれる。
没頭し家で練習している人間は、具体的な質問をどんどんぶつけたり、もしくは、練習成果を私に見せる時、間違っていようが、堂々と演じきる。心が向ききってない人間は、練習できなかった理由をいきなり語って、結局順序すら覚えていない。
拳法を志す者は、本格的なものが習いたいのなら、なおのこと、先生をなめてはいけない。うまくできなくてもいい。とにかく定期的に練習をし、言い訳などしないことだ。
清末転掌式の機縁を与えてくださった楊先生は、愛知から東京に通い、その都度、間違えて演じきってしまうくらい練習してくる中学生だったからこそ、時間外に、一般的でない八卦掌を教えた。その中学生が、習っただけで復習もしてこないだけの熱意ならば、きっとその中学生に清末転掌式八卦掌は伝わらなかっただろう。
支部館の教練長は、支部館であるがゆえの制約があるため、ちゅうちょもするだろう。熱意も必要である。清末転掌式八卦掌は術理がシンプルであるが、簡単ではないため、膨大なくり返しと、試行錯誤が必要である。現実的な持久力が求められ、マジック的な身体操作で巧妙華麗に勝つ、は一切ない。
しかし、門弟にとって、「伝統を受け継ぎ、次代に伝える」というなかなかできない『経験』をすることができる。その経験をもとに、支部館以外に自分の道場を開き、そこで自分の修行によって得られた真実をもって伝えるといい。
教練長が自分の道場を、支部館以外で別個に持つことは、当然自由であるから。