いじめから抜け出す決意をしたとき、気分の高鳴りで、一時、勢いよく先に進む。
しかしほとんどの場合、気持ちの上下により、どうしようもなく落ち込む時がある。そのような時ほど、練習が辛いものはない。
気分の上下で落ち込むだけならいい。いずれ回復することもある。しかし、悲しいことが起き、それがもはや、取り返しのつかないこととなった場合はどうか?
落ち込むのとは比べ物にならないくらいの、心の奥底に貫通し、とどまるような悲しみの時は?
そしてその悲しみは、たいがいの場合、誰にも話せない。なぜなら、いじめの戦いの時、多くの人が孤独だからだ。誰も味方になんかなってくれない。私の場合も、話を聴いてくれる人間など周りに一人もいなかった。先生など言うに及ばず、親族ですら話すことができなかった。
その時になってみるとわかるが、目上の人の対応は・・・多くの場合、こちらの至らない点を指摘され、「がんばれ」と言われて終わる。ひどい場合叱られる。言えるはずなかろうに。
※私の場合は、親にも話すことができなかった。でも、もし可能なら、親御さんにだけは打ち明けてみて欲しい。君のその話を聴いてくれるかもしれない。ほとんど多くの親御さんは、君の悲しみを、悲しいと思ってくれる。
その場合、己の悲しみに寄り添うのは、自分しかいない。
私の場合、とにかく外に出た。外に出て、見晴らしのいいところに行って、遠く灯りを見つめた。空を見上げ、星を見ていた。
練習する、という気持ちをその時一切捨て、そこらにある棒を持って、八卦刀術で一人斬りまくった。汗をかくとか、疲れるとか、そんなことをは一切考えず、後先考えず、やみくもに振り続けた。
それができないときは、クラッシックを聴いた。歌詞付きのJ-POPではなく、クラッシックでも、神にささげる部類の曲を。
私はよく、カッチーニのアヴェマリアを聴いていた。
そしてそれは、今でも聴いている。練習をしながら聴くこともある。
私はもう、いじめで苦しんだ時から、40年近くが過ぎている。しかし未だに、あの時の敗北、同級生の泣く姿、欠席で使われない机といすがぽつんとある光景を、明確に思い出す。夢にまで見る。今年も、「うなされていたよ」と指摘されることが何回もあった。
どうしようもない悲しみが湧き上がる時は、もうその悲しみに寄り添うしかない。それだけが、己を少しばかり救ったと、実感している。
もう30数年、そうやって乗り越えてきた。
自分は、八卦掌の術理を極め、人に指導して志を実現させる道を歩き始めたならば、この苦しみや悲しみが和らぐと思っていた。しかし全く変わらなかった。何か事が実現したら、何かいい条件が起こったならば、悲しみから解放される。そう思っていたが、そうならなかった。
脅迫観念によって、どんなに体調が悪くても練習をし続け、多くの失敗を重ねてきた。練習を怠ることは、誓ったことを破ることだと思って進んできた。しかし、必要だったのは、悲しい時、一層追い込むことではなく、悲しみに寄り添うことだった。
カッチーニのアヴェマリアの旋律は、私にとって、素直に悲しみに寄り添う気持ちになるものだった。この曲に身をゆだねる時、涙があふれる。思い出す。それも無理におさえたりしない。気持ちのままに、思いだすことも頭から消さず、身をゆだねる。
何も考えず、棒を手に持って振るのと同じだ。棒を振るのは体力を奪われるし、場所も必要だが、アヴェマリアを聴くのは、いつでもできる。
練習の時も聴く、といった。その旋律が流れる時、振っていた棒を置き、空を見たりして、手を合わせ、もう戻ってこない人を想う。そうすると、少しだけ、遠くへ逝ってしまった人に、近づけたような気がして心が落ち着いたりする。
きっと君は、私と違い、まだ取り返すことできるのかもしれない。しかし悲しみは同じだ。悲しみに優劣なんてない。
「皆悲しいことの一つくらいある」「悲しいのは、辛いのはお前だけじゃない」そんな言葉は何にもならない。まったく無視しよう。悲しみを比べること自体が、意味がない。気にする必要のない心無い言葉だ。
君が悲しみに心を制され、どうにもならないときは、君が一番に寄り添ってあげて欲しい。君が君のことをもっとも大事に思って欲しいのだ。
アヴェマリアや、やたらと棒を振ることは、たった一つの例。寄り添い方は、君がもっとも心を保つことができる方法で行うのみ。