清朝末式八卦掌は、”相手次第”を排したから護身術たりうる

八卦掌という武術に興味を持ち、八卦掌を護身術として考え、取り返すために練習をし始めた君へ。

この拳法は、他の拳法と、大きく異なるところがある。それは、相手の状況いかんにも屈しない対処法を身につける、という点である。そのことを念頭に入れて、少し長いが、読んで欲しい。

私の八卦掌修行の過程は、常に「”相手次第”を排すること」に費やされてきた。

八卦掌は護身によって護衛を実現する拳法。護身術である以上、相手次第の要素が多いのは致命的である。相手の状況によって、生死が決するならば、そのような技術に時間を費やす意味がない。

その点について、話していきたい。

近代八卦掌を練習している時は、どれだけ練習しても、体格がいい手足が長い、それだけの理由で、自分よりも圧倒的に練習の少ない人間に圧倒されることがたくさんあった。

勝ち負けなんてどうでもいい。負けることは悔しくなかった。それよりも、「相手次第」の攻防スタイルしか採ることができない自分の無力さ・至らなさに、悲しさよりもいきどおりを感じていた。

八卦掌は護衛術である。護衛術・・・しかしその「守り方」とは、我をおとりにして守る悲愴な方法である。

そのような悲愴な方法であっても、自滅などという破滅的な戦い方はしない。そこを創始者は、考え抜いていた。

単換掌は実に合理的な考えのもとに考えられた戦法である。複数の敵の中を、勢(せい)を落とさずに立ち回るための根幹的身法である。しかし敵は、後ろから来るだけではない。

単換掌の術理でやり過ごし転身した先にも敵はいる。どこにも敵は居る。その都度、後退スライドが合理的な対処法であるとは限らないと創始者は考えた。そこで、前の敵に対処する方法が考えられた。

順勢掌(梁派における順勢掌の術理を持つ前敵対処の技法)が考えられた。そこから、単式練習が考えれ、近代にいたり、スライドのない単式練習となった。

近代にいたる過程で、勢の大原則から離れた。対多人数戦の八卦掌では、勢は外すことのできない絶対的に近い原則である。そこを離れた時点で、近代と昔日の八卦掌は、ほぼ別物となったと言っていい。

これは、マイナスの進化ではない。戦いの場が、殺し合いから割と穏やかになった他流試合となり想定が対一人がメインとなり、体格も同じくらいの人間と戦う配慮もされ、修行者も拳法経験者の男性が多くなったから生じた、自然の変遷である。

近代の拳法を取り巻く状況の下で、後退スライドで、我の攻撃が当たらなくても敵の攻撃が当たらないために、スライド離脱を繰り返す生存第一スタイルなど採る必要はない。私がこだわっているのは、過去の敗北と蹂躙の出来事と、教える門弟が、ほぼ女性ばかりであったから。

敵のそばにとどまって、勢に頼らず技法で戦うということは、相手の都合(技術・体格など)に左右されることを意味する。

あれだけ回り込むことが難しかった近代変則スタイル斜進攻防でも、相手の技術や体格が自分より不利であったりすると、十分に通用する。逆に、不利な面が少しでもあると、ほとんど通用しない。

その現実に対抗するために、膨大な時間の対人練習が必要だったりする。螺旋功などの精密で才に左右されるような技術の会得が必要だったりする。事の帰趨は、多分に相手にかかっている。

相手次第・・・これは、わが身を守ることの成否も、わが身を守って立ち続け、守るべき人を守ることの成否も、相手の事情にかかってくる。どれだけ練習しても、相手次第で左右されてしまう技法に、わが身ならともかく、大切な人の命を預けることはできないのは当然の考えである。

相手の側面にとどまれば、我も連続攻撃ができるため、あてることができるだろう。しかし相手の攻撃をもらう可能性も生じる。そして、相手は我よりも強大である。時間の経過とともに、我の様々な資力は減り、いずれ動くことができなくなるだろう。敵よりも早くに。

孫子の兵法における『小敵の堅(けん)なるは、大敵の擒(とりこ)なり』に通じる事態である。

ここで原則に戻りたい。八卦掌の大切な人の守り方は、我をおとりにすることである。ならば、喰らってはいけない。止まってもいけない。そして止まらずに、移動のついでにランダムに、敵に襲い掛かる必要がある。

そうなると、前敵対処法におけるスライド攻撃の方法は外すことができない。スライドしないと、敵にぶつかり、勢がそがれ、我の攻撃が敵に脅威を与えなくなる。「いつ襲ってくるかわからないから、見てないといけない」と敵に思わせないと、敵の魔の手が守るべき人に伸びてしまう。最悪である。

スライド攻撃することで、敵の事情による勝敗結果の左右を、大きく下げることができる。はなから防御するつもりなんてない。通り過ぎながら手を出す。手を出して当たるスライド軌道を、練習の時からひたすら繰り返している。

私の修行で、清朝末期頃の八卦掌に回帰するために、この方法で考え続けてきた。常に原則に立ち返る。この方法をとったら、勢に影響はないだろうか?

AとBの方法がある。どちらかで迷ったならば、八卦掌のおとりによる護衛を実現するために、どちら方法が有効か?の視点で考える。おとり戦略による護衛のためには、「勢」だけはぜったいに外すことはできない。

この試行錯誤の作業をずっと繰り返し、二十数年の歳月ののち、気づいたのである。単換掌の術理に。”相手次第”との格闘の果てに、やっと気づいた。先生に教えてらったわけではない。先生は、「八卦掌は多人数戦専門の拳法」と言っていたが、具体的な方法は示さなかった。中国拳法らしく、自分で考えろ、とのことだったのだろう。

単換掌の術理は、誰にも言うことなく過ごしてきた。前に所属していた道場の兄弟子らにも言ってない。

後ろに下がる、後ろに下がりながら攻撃もする、が、あまりに特徴的なので、否定されるのが不本意だったのがある。隠して独り占め・・・なんてことを考えていたわけではない。

その時は、まだ、相手次第、の要素をぬぐいきれていなかったから。もっともっと磨く必要があったから。その時すでに、後退スライド撤退戦の対敵身法を採るようになってから数年が過ぎていたが、まだ相手次第の要素に翻弄されていた。

「相手次第を排する」という視点に立って物事を考えていると、中国拳法を習うにあたって当たり前である常識的基本技に対しても、○○次第でないか?と考え、「これは本当に極限で使い得るだろうか」と一考するようになる。

槍術の基本を例にとる。「モノ次第」と考え、技術体系を組み直したいい例である。

中国拳法界でなぜかやたらと有名な、槍の基本である「ラン・ナ・サツ」であるが、ランとナはともかく、サツは、実戦では非常に使用が厳しい。技が難しいとかではなく、槍の柄部分を、手の平の中を滑らせる行為が、実戦では己を傷つけることにつながるからだ。

身の回りのモノで戦うのは、実戦の大基本である。しかし槍の代替品たるものは、そこらの長い竹や、緑の農業用支柱、工事現場の進入抑止バーである。

それらは通常野ざらしで表面が傷んでいるのが普通で、 手の平を滑らせたら、とたんに皮膚を傷つけてしまう。つまり、滑らせる技は使用できないのだ。管槍(くだやり)でもない限り、これは厳しいと感じた。

昔の武芸者は、手入れしたお気に入りの槍を常に持ち歩き、かつ戦場では手袋をしていたため、あの技法を活かすことができたのだ。そもそも、置かれた状況や使用環境が違う世界での技法となる。であるならば、それは使うことができない。

よって弊門では、槍術に関して、「モノ次第」の要素を排するために、双身槍の操法に忠実になり、手のひらの中を滑らす技法は使用しない。皆、槍の中央付近で持ち替えて、先端部分で攻撃をする。

※ランとナに相当する技法(名称も動作の大きさも違うが、やっていることはよく似ている)は、八卦双身槍の基本であり、もちろん一番最初に指導しているため、中国拳法界の常識にとらわれている人でも、納得して練習している。

○○次第を排するための技法の総見直し(オーバーホール)の作業に多大な時間がかかり、清朝末式八卦掌のある程度の確立までに、単換掌の術理に気づいてから、十数年の歳月を費やした。これでも短い方である。身近に、単換掌の術理に素直な子達がいて、常に練習をして重ねることができたから、十数年で済んだのだ。

時折問い合わせの中で、とらえ方は違うが、年齢や相手との体格差とかで、行き詰まり・疑問を感じ、申し込んでくる人がいる(そのうちのほとんどは、その後、何らの断りもなく消える)。この前も、そのような疑問を感じて真摯に問い合わせて来たので、仮入門を認めアドバイスをした(その人も来なかった。いつものことであるが)。

質問後・問い合わせ後の態度・対応はともかく、相手次第に疑問を感じている人は一定数いるようだ。私は、その中で、その疑問をそのままにせず行動できる人に、指導していきたい(行動しないで待ってるだけの人間には教えようもないし、指導してもすぐいなくなる)。

他武術の経験が長い人間は、力と力がぶつかるスタイルからなかなか離れることができない。プライドが邪魔をするときもある。習いに来ているのに、後退スライドに勝負を挑む馬鹿タレもいた(そういう人間は、当然叱る。なんのために来てるんだと)。

相手次第を排することを至上命題として常に意識して練習を積み重ねても、十数年もかかったのだ。わたしから術理を教わることができるとはいえ、清朝末式八卦掌の力のぶつからない術理を採りいれる気のない以上、いつまでたってもうまくなることはない。

後退スライド撤退戦対敵身法はシンプルゆえ、さわりだけを習っただけで、来なくなる人間もしかり(講習会に来る人間に多かった。講習会を開かなくなった一因である)。最初から、核心部分になど触れることはできない。シンプル=すぐできる、ではない。シンプルでも、こちらは段階に応じて指導内容を変える。自分が理解してきた道に沿っているのだ。命がかかっている技法だから心底理解させないと危ない。当然である。

護身術を考えているなら、術理が最も大事である。どこで開催される、とか、室内だから快適に練習できるから、などというどうでもいい理由で、命を賭ける技術を習う場所を選ばないことだ。もし力がぶつかるスタイルの護身術を習うなら、対人練習をコンスタントに行うことができる道場がいい。家の近くで、かつ、対人練習を積極的に行ってくれる道場となろう。

弊門は力のぶつからない術理ゆえに、遠方の人間でも後退スライドの練習方法をしっかり理解し地道に積み重ねるならば、実戦に耐えうるレベルまで上がる。練習による上達においても「相手次第」を排し、「本人次第」としている。

君が、あなたが我が身を守り、大切な人を守りたいなら、「相手次第」を克服せよ。その先に、大切な人の笑顔が待っている。

大切な人、の中には、当然、君やあなた自身も含まれる。君も、あなたも、誰かにとって、大切な人。そして自分にとっては、間違いなく大切な人だから。

八卦掌水式門富山本科イメージ

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