練習の目的は、グランドマスターとなること

先生のコピーを目指すな。流派の看板の下に甘んじようとするな。

自分で気づいて、自分がいいと思ったものがあるならば、「爆誕!」などと、その他大勢の人間が使うような言葉なんて使わず、未来のグランドマスターとして、堂々と、例えば、館長の名前を借りるなら、水野義人伝、のように宣言すればいい。

館長は、拳法以外では穏やかだが、拳法に関しては、自分の道をひたすら追い求めるような人間。その例を見ているので、自然と自分も、周りも、そのようになる。

私に話してくる人間って、いつも予想するような回答しかしてこない。またそれ?と思う。もしこいつが拳法なんて修行したら、肩書ばかり求めるんだろうな、って思ってしまう。

なんでいつも、作ってもらいたいものが肉じゃかなのか。あいつもそうだったけど、こいつもこの店を材料に誘ってくるの?私は2ケタ代でこのようなことがあった。そのたびに、個性だなんだといいながら、人の意見に自然と流されていくことの恐ろしさを感じる。

私はそれだけは嫌だなと思う。いつも館長が言っていた。目指すなら、前代未聞になれ。拳法ならばグランドマスターになれって。グランドマスターっていう言葉は、館長の口癖だから、周りの人間は皆、その言葉を自然と使ってしまう。私は4歳からずっと、聞いてきた。そして練習の目的が、自然と、グランドマスターになっていた。

しかし飛び出すなら、きっと苦労する。その好例を間近でいつも見ているから。あれだけ練習しても、何にもならいことばかり。名をとり、長きに巻かれて皆と同じことやっていれば、もっと気楽にできるのかもしれない。

でも、埋もれてしまう。何か残したいと思わない?私は思う。このブログ、見ると全国の色んな人が見ているようだけど、いい機会だから言いたい。好きにやってしまえばいい。自分の得意なものがあるなら、どんどん練習して、オリジナルにしてしまえばいい。もしあなたの先生が許さないなら、こっそりと練習すればいい。わたしなら、行くのやめるけど。

目的を定めること。何をしたいか。拳法をマスターして、何をしたいのか。

ただ楽しみたいだけなら、それはそれで全く問題ないと思う。極め、独自の境地に達することを快感とするような人とは合わないだろうけど、それは別に悪いことでもない。

私は、グランドマスターになること。それが目的。館長の影響を受けているかもしれないけど、私は何とも思わない。ずっと館長から聞いているうちに、独自の境地に達することがどんなことか、知りたくなったから。

見ていると、どうしようもないことで悩んだりしているし、落ち込んだりしている。時々うろたえることもある。なっさけない、グランドマスターも普通の人間だな、と思う。だけど、拳法になった瞬間、目つきが変わる。どんな時でも、どうすれば今日いい練習ができるか、と考えて、行動する。要所要所で、鬼のような顔になることがある。

実技的な強さじゃないんだ。きっとこれは、取り組む姿勢の問題だと思った。姿勢が違うから、スイッチも入りやすい。その切り替えが、本当に凄いと思う。

それとなくだけど、何度も聞いたことがある言葉は

「グランドマスターなら、こんな時も笑って練習するからな」

「寒い!これで、また決意が強くなる。ますます後戻りできん!」

些細な言葉だけど、この言葉を、自然と発せられるようになると、もう一人前だと思っている。私はまだまだかもしれない。相手に負けたくない、とか、悔しさばかりが先行する。大きな考えが、いまだにできない。そこがもどかしい。

まだ門弟なんだな、と思う。とっくに卒業したけど、まだまだ参考になることはある。これが、ずっと長年、追い求めてきた人間の深みか。

先輩に、派手に打ち負かされているけど、それでもいつでも胸を貸し、笑顔で強さを喜ぶ。グランドマスターって、やはり強さだけじゃない。背負っていることが、土台の条件だと感じた。

これから水式館に来るならば、グランドマスターを目指すのがいい。

そのためには、館長にしっかりと教えてもらえる「今」がいい。肩書ばかり求める人間には、きっとこの記事は響かないだろう。でもいい。正直そのような人間は来なくていい。肩書にこだわっているなら、きっとグランドマスターの境地に触れることはできないから。

これから私が学ぶのは、技術ではなく、グランドマスターのマインドだと思っている。無理やりだが、後に続く者たちも、このマインド、大事にしてほしい。

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