ちまたの護身術では、女性が身を守ることが困難な理由2つ

「女性 護身術」と打ってインターネットで検索すると、実に多くの護身術が登場する。

しかしそのほとんどが、敵と相対し、敵の力のベクトルに対抗し、敵への積極的ダメージを狙うものだ。

これらの護身術のサイトを開き、実際に男性が暴漢役としてデモンストレーションを行っている動画を見ると、やはり難しいと感じる。

何が難しいか?それは、「(この)護身術で、女性が身を守ること」だ。根本的なところで、難しいと感じるのだ。これはいい加減な直感ではない。なぜなら、これほどまでの練習を重ね、中国拳法をお金をとって指導するまでに達した自分でも、「これはできない」と思うからだ。

理由はシンプルである。

一つ目は、敵と向かい合い、、敵の攻撃の力のベクトル方向に相対する技で対抗しているからだ。

女性の筋力は、男性のそれと比べて、想像以上に、低いものだ。

理性を失って自分の行動を抑制することを忘れ、欲望のままに突き進む暴漢(ほとんどが男性)の筋力は、理性の管理下に置かれた男性の筋力と比べて、数倍にも跳ね上がる。

逆に、襲われる側の女性(カテゴリーが女性の護身術なので、ここでは女性想定で話を進める)は、襲われたくない気持ち、そして、今まさに自分が局面している危機を受け入れる心の準備がなされない状態で身体が躊躇しているため、理性を失って襲う男性の筋力に対し、あまりにも低くなる。

その低い状態の中で、攻撃してくる相手の腕・足・身体の力のベクトルに対して抗したら、防ぐはずの手脚は一瞬で制され、弾き飛ばされ、たちどころに押さえられ、組み伏せられ、もしくは殴られ、蹴られる。

男性の私であっても、そのような経験があったのだ。そして残酷だが、弾かれ押さえつけられた後は、容赦ない攻撃と蹂躙が待っている。

女性の護身術をうたうなら、防御も攻撃も、いやそれにかかわるすべての動作が、敵の力・技のベクトルに向かってはいけないのだ。弱者使用前提の清朝末式八卦掌が、防御から攻撃までを一貫して、敵の力とぶつからない方法を採用しているのは、敵の力とぶつからないことを目指しているからである。

二つ目は、敵と接触している点である。ここが最も女性の護身を困難としている点だ。そして根本的な点でもある。

「女性の護身に対する考え方が変わった」と言われている護身動画を見ても、必ず敵を接触する段階がある。これのどこが革新的であるのか。根本的なところが抜けている。

敵と接触する。敵と接触する=敵を制する。敵を接触で制するには、敵の技法、筋力を上回る必要がある。敵の事情によって、護身の結果が大きく左右される。つまり「相手次第」の要素が結果の帰趨を分かち、生死を決するのだ。

護身術で「相手次第」はあってはならない。これは、私の口癖でもある。しかし確信に満ちているから何度も言うのである。護身に失敗は許されないなら、準備の段階から、「自分次第」の領域で勝敗を決する技術体系で準備をする必要がある。

「接触する」・・・この点を改善するために何ができるだろうか。「接触」の段階がある時点で、女性護身術として大きな問題が生じ、そこからほころびが生じるから、護身を考える女性であれば真剣に考えてもらいたい。

敵の攻撃を、接触して手技で受けている。先ほど、ちまたの護身術でよく採られている暴漢に対する手技による応戦例を示した。おそらくこれらは、武器が消え、人が徒手で行動するようになった場合を想定した対敵身法である。

八卦掌のルーツは刀術(盾兵である藤牌兵【とうはいへい】による戦場刀術)である。

双方が武器を持っている際、両者の間隔(つまり「間合い」のこと)は大きくなる。武器持ちで接近戦はありえない。つまり、相手の持っている武器が、持っている人の筋力や年齢などをまったく超越して、それだけで大変な脅威となるから離れるのだ。

藤牌兵の攻防でも、敵の力と抗する場面がある。その際は、藤牌を敵に差し向け、藤牌によって敵の攻撃を受け防ぎながら後退・側面移動し、もしくは藤牌の下から手持ちの刀を突き出して防御する。

私たちが現代において護身する際、軽い、手回しのよい藤牌などは持っていない。藤牌に類する防具も持っていない。

※「カバンで応用」などという無責任な説明をたまに見るが、カバンなどはアームシールドである藤牌とは比べ物にならないくらい扱いにくい代物であり、とてもじゃないが、防具にはならない。防具である以上、緊急時の想定を超えるような暴力の力を受ける必要があるのに、持ち手もないカバンなどでは、容易に押し込まれ暴力の矛先が身体に到達する。

藤牌も防具も持っていないなら、攻撃を接触して受けることはしてはならない。だから清朝末式八卦掌は、既存武術の概念を大きく超える後退スライドの移動距離をもって、敵を接触することを排して、それを最高の防御手段としているのである。

八卦掌水式門の練習では、八卦掌の中核・単換掌の術理を指導する際、接触した状態で教える。しかしそれは、初心の段階だけである。

私が有事速度で用法を示す際は、接触すらしない。接触すると、敵次第の要素が入り込み、こちらの思うように戦いを主導できないからだ。

敵が近づいてきたら、手も出さず大きく後退し、敵を並走しながら、届く段階で初めて手を出す。手を出す時、すでに身体は敵から一層離れる態勢に入っている。その瞬間・その直後から、大きく後退スライドし始めるのである。

既存武術を練習している男性、もしくは、まったくそのようなものを練習していない男性は、攻撃する際、必ず軸を作り攻撃する。軸を作る=軸を置いた場所に止まる、のである。

攻撃によって「止まる」瞬間にも、常に動き続けている清朝末式八卦掌の使い手は、その瞬間に敵を大きく引き離す。何度も繰り返し向かってくるならば、何度も引き離し、少しづつ距離をとっていき、敵が疲れた状態で一気に離脱する(離脱は、キロメートル単位で行う)。

※軸を作って行う技は清朝末式八卦掌では一切行わない。その場に止まってしまい、「勢(せい)」がそがれるから。よって、蹴り技は一切ない。近代八卦掌の用法を示す際、入門したての門弟に蹴り技を示すことはあるが、あれは、近代用法を示しているだけである。清朝末式八卦掌における移動遊撃戦の渦中では、一瞬の軸足作成動作のスキも無い。足は常に、移動という「防御」のために使っているから、軸足として使う暇がないのである。使いたくても使えないのだ。やってみればわかる。八卦掌における有名な「暗腿(あんたい)」ですら、清朝末式八卦掌ではほぼ行わない。

最後にまとめたい。もしちまたの護身術で真剣に護身を考えている女性がいるならば、「接触し、力がぶつかる」際の制敵技法が習得困難でない護身術を選ぶのがいい。

制敵技法の習得は、一般に大変な困難を伴う。そもそも、対人練習を相当に積まなければならない。サンドバックや木相手にいくら打ち込んでも、制敵技法に対する自信は湧かないだろう。

よって、近所で、通いやすく、対人練習もしっかりと実行できる道場・ジムを選ぶのが必須となる。そして積極的に、先生と組手を行うこと。

しかし、暴力の力を手わざによる防御と攻撃で制して護身する護身術は、攻撃できて護身術っぽくても、大きな危険が伴う一か八かの要素が強いことは忘れないで欲しい。とにかく練習し、有効な一撃を与えることができたら、その場からキロメートル単位で離脱せよ。私はここまでくらいしかアドバイスができない。

私は、清朝末式八卦掌を指導しているから、この拳法を例にとって話しているが、数多くある武術・格闘技の中には、清朝末式八卦掌に匹敵するくらい、敵と接触をさけ、敵の力とぶつからない技術体系をもった武術・護身術があるかもしれない。

それを見つけるのはやはり困難である。国内では、女性向けと言われる八卦掌の道場の中でも存在しない。しかしあるかもしれない。

ここで、見分け方を教えたい

(1)手技で防ぐことを指導する武術は、敵と力がぶつかる武術である。格闘技をアレンジして護身術として指導している道場の護身術は、ほとんどこの部類である。近代八卦掌は、この分類に属する。

(2)防御後、前に出て攻撃をするスタイルも、力がぶつかるスタイルである。既存の護身術は、この手のパターンも多い。しかし、攻撃で前に出る瞬間、接触し、力がぶつかる。

(3)防御も攻撃も、一貫して下がって行う技法を持つ武術なら、それは接触しない、力がぶつからない護身術となり得る。女性には、このスタイルこそが、最適の護身術となる。清朝末式八卦掌は、まさにこのスタイルである。そして、対武器を想定していた各拳法の原初スタイルもこれに該当する。攻撃を当てるよりも、攻撃に当たらないことを徹底し、手わざにほぼ頼らず、移動による身体移動で防御する。

真剣に護身を志し、護身第一を考えている女性がいるならば、(3)のスタイルを採る護身術を探し、教えを請うてほしい。

(3)のスタイルは、はたから見ていると、逃げ回っているようにしか見えない(移動して防御している、という概念が皆には理解できないのだ)。持久力も必要だ。華美な技はほぼ無い。しかし女性が護身を果たすうえで、もっとも適したスタイルだ。この言葉を念頭に入れ、あなたの命を守る技術体系とめぐりあって欲しい。

八卦掌水式門富山本科イメージ

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