清末転掌式八卦掌の歴史|「転掌」成立要因と近代化への変遷過程・技術体系

(このページは、2024年7月12日に更新しました。)

清朝末式八卦掌と近代格闘術八卦掌の違いの図

清末転掌式八卦掌八卦掌は、成立当時のままの技法で構成されている。

成立当時の八卦掌は、八卦陰陽理論などの理論的骨組みはなく、その名称も「転掌」と呼ばれていた。

よって、技の構成についても、「八」という数字に縛られることはない。基本技は、単換掌・双換掌・勢掌の3つのみである。これら3つの基本技を構成する術理を用いて、刀・長棒・双短棒(双匕首)を操る簡素な修行体系である。武器術に新たな套路(複合型)があるわけではない。

創始者・董海川先生に教わった初期弟子が、中国各地に移動した際、そのうちの一人が我が師の祖先に何らの形で伝え、斜め後方スライドを一大特徴とする成立当時のままの「転掌」技法が、八卦掌水式門・代表の水野に伝わったのである。

螺旋等の繊細な技法で対抗する近代八卦掌の技法が国内外を問わず伝承されている中で、斜め後方スライド撤退戦による対多人数移動遊撃戦を特徴とする転掌技法に気づくことは、水野一人では到底無理であった。伝承していただいた楊師の熱意と恩恵は、成立当時の技法が現代に復活するうえでの一筋の光となり、水野が技法を確立する上での灯台的役割を果たした。

現在中国国内で著名老師が著す八卦掌関連の教書は、閲覧できる限りのほぼ全てが、強者使用前提・対他流試合・対一人想定の、近代格闘術八卦掌を指導するものである。文献によって、斜め後方スライドの技術体系をもつ八卦掌を証するのはほぼ不可能となっている。

代表・水野は、近代格闘術化した八卦掌(梁派)の指導許可を得た立場であるが、十代初期に楊師により伝授された、文献による立証不能の、斜め後方スライド技法の転掌式八卦掌を追求するため、梁派の伝承者の道を辞し、成立当時のままの八卦掌(以下「清末転掌式八卦掌」と呼ぶ)を確立・伝承することを決意した。

ここで示す歴史と技術体系は、水野が、単換掌・双換掌・勢掌と武器術などを、膨大な時間をかけて修行し、身体を通して理解した「気づき」のみをもとに、たどりついたものである。先ほども触れたように、中国国内には、成立当時の姿を示す資料はないため、己の身体による試行錯誤の末に得た「気づき」のみが、証となり、資料となる。

清末弱者使用前提の技法による転掌式八卦掌については、どの修行者にもひけを取らない情熱と時間をもって、考察した。その内容は、多角的な角度から何度も考察されたものである。その点を念頭に置き、当ページにて清末転掌式八卦掌の歴史に触れてもらいたい。

※八卦掌における技術体系・歴史考察などについては、各流派・指導者ごとにその内容は大きく異なる。よって弊門の考察等に対する部外者の指摘などは、例外なく受け付けないためご留意されたい。

八卦掌を理解するうえで、本当に重要な「董海川」開祖の知識

董海川先生の若き日の経歴などは、謎のままである。中国国内の著名な八卦掌研究家が、地の利と中国国内ならではの文献検索力をもってしても、若き日の具体的な経歴を特定することはできなかった。

『諸国を漫遊し、各地の名拳士・名武術家らを尋ね歩き、手合わせ・交流・師事をしているうち、中国北東部のとある地で「異人」と出逢い、八卦の技法を授けられた。董先生の絶え間なき修行の過程で、八卦陰陽の法による身体出自の理が整えられ、道教の修養の理と相まって八卦掌となり、清朝王族府での武術採用もあいまって大いに発展をした・・・』

が、一般によく言われる成立と発展の過程である。

董海川先生胸像
転掌創始者・董海川先生

読んでわかる通り、具体的なこと、年代等についてはよくわかっていない。1800年代中期ごろと割と新しい時代において成立した拳法にもかかわらず、創始者の経歴のほとんどが不明確なのである。

これは董先生が、低い身分の民間人であったことが大きな要因である。

為政者側の人間で高い身分の官吏であったならば、記録が残っている可能性がある。そうではない一般庶民であったから、生涯についての具体的な記録が残されていないのである。

董先生は、下層の人間であったがため、文字を読むことも書くこともできなかったと考えられる(為政者側は、民が反乱思想につながる知識の習得を嫌い、民の識字率を意図的に下げていた)。事実、董先生の生涯を示すヒントとなりうる、董先生自らが作成した文献や資料は、発見されていない。

見当たらないから、「異人」に出逢って習った、とか、諸国を漫遊し・・などの不明確な話が董先生の生涯を説明する際のメインストーリーとして語られているのである。

よって、董先生の、もしくは八卦掌草創期の歴史を具体的に特定するのは、極めて難しいと言える。

しかし、私たちは八卦掌修行者として、その技法を会得するために、目的をはっきりさせておく必要がある。目的を特定しなければ、目的を達成するための技術体系を組むことが出来ないからである。

八卦掌を理解し、そしてそれを実際に使って自分を守り、大切な人を守る手段とするために、ある程度はっきりとさせておきたい箇所は、以下の4つである

  • 董海川先生が宦官(かんがん)であったか。宦官であったなら、なぜ董先生は宦官となったのか
  • 異人とは何ものか
  • 八卦掌の目的と、その目的を達成するための技術体系の中核はなにか。
  • 八卦陰陽理論によって転掌から八卦掌へと変遷していったのはいつごろからか。

董海川先生が宦官(かんがん)であったか。宦官であったなら、なぜ董先生は宦官となったのか

董先生が宦官であったか否かは、転掌の技術体系が生まれる前提に関わるため、ここで触れる。

宦官であるから、筋力・体格が並みの男性のようにならず、そこより身体的資源不利者使用前提の転掌が生まれた、とするのが、清末転掌式八卦掌のスタートだからである。

董海川先生は、漢族であり、漢族である以上、宦官であった

董先生が宦官であったことは、八卦掌内における諸派において、通説となっている。董先生の経歴を語るうえで出てくるのが、「清朝粛親王府」である。

粛親王府は清朝王族中の上級の家柄で名門であり、紫禁城北東部の位置に、割と大きな面積の邸宅所有地を誇っていた。

清朝王府の存在位置
紫禁城と粛親王府

「王府」とは清朝皇帝一族や、建国に功績があり爵位を与えられた貴族らの邸宅のことである。それは位の高い順に、親王,郡王,貝軌,月子,鎖国公,輔国公までを、王府としている。

粛親王府は、王府中の最高位である「親王」府であり、紫禁城後宮と相まって、粛親王府の内部には、王族を筆頭に、あまたの王族寵姫・奉仕する女官、そして去勢された男性官吏たる宦官が在籍していた。

紫禁城と後宮・王府の存在する内城について、漢民族の居住はもちろんのこと、宿泊すらも制限されていた。紫禁城があった内城には、満州民族しか居住と宿泊が許されなかったのである。当然、漢族の武官は、その立ち入りが厳しく制限されていた(謀反の意を秘める武官の侵入は重大な国家危機におちいるため、平素よりほぼ例外なく、武官の立ち入りは禁止されていた)。

董先生は漢族である。漢族男子が宮中内にて王族の世話をするためには、宦官となる以外道はない。当時の身分制は、現代の人種差別政策を遥かに上回る徹底ぶりであった。その点より、董先生が宦官であったことは、ほぼ間違いないと思われる。

宦官となった理由~連座制・立身出世・政治的思想のため・・・

昔日の文献の中で、董先生が宦官となった理由は確認することはできない。

董先生の石像に、「連座」によって宦官となった記載がある。しかしそれも、確証となるものではない。董先生の生涯・経歴を示すものは、確証となるものがほぼない。

この点より、董先生の身分がある程度推測される。

まず、身分の低い立場であったこと。そして漢族であったことである。これらは、董先生の経歴を示す記録が残ってない点から推測される。為政者側にて、しかるべき地位を持っていたのであれば、記録は何かしらの形(例えば、政治的事件に関わる記録・日記・日常雑記など)に、その名が残る。

為政者は、中国国内においても、全人口の1割未満であった。圧倒的多数の、記録の残らない庶民で占められていたのである。庶民の記録が残ってないのは、庶民とその周りの家族・親族等が、文字を書くことができず、そして文字を読むことができなかったからである。識字能力が無いのは、身分の低い庶民である代表的特徴である。

そして董先生の若い頃の経歴は、四代門派の開祖にも関わらず、残されていない。全てが、諸国を漫遊し・・・類の話である。意図的に、具体的経歴が伏せられている感も受ける。

若い頃の具体的な経歴を、立身出世してからも門弟に語らず、曖昧な伝記のみが残った点。転掌につながる技術習得の場面が、「異人」による伝承によるもの、と説明している点。これらの点より、転掌の技法が、反社会的組織の中で確立されたか、己自身で創作したか、の推測を生むのである。

当時の反社会的組織は、太平天国軍の残党、地域の野盗、海賊などである。太平天国の動乱後の中国国内は、清朝の権威が大いに失墜し、各地で盗賊野盗がはびこり、アヘンのまん延により、庶民生活中において平然と「死」の危機が存在した。

宦官となる者の動機は、そのほとんどが、明日をも知れる生活を何とかしのぐためである。去勢し通常の男子の機能を除去すれば、宦官として宮中内に入り、食にありつくことができる。

何らかの理由(ほとんどが犯罪や、反社会的活動への参加)で地域とのつながりを絶たれ、故郷に帰ることも不可能となった人間が、宦官となって目先の食をつなぐことは、珍しい例ではなかった。

董先生が宦官となった理由には、ドラマチックでロマンス的なもの・政治的思想に基づく反清復明活動的なものも含め、数多く存在している。

しかし後に、宮中内で採用されやすい技術体系を持つ武術をわざわざ作って立身出世を果たすあたり、董先生が宦官になった理由は、身を立て生活をしていくため、であったと推測されるのである。

「異人」とは何者なのか

拳法の創始について、各流派が、ある時代の英雄を創始者とするのは、よくある話である。形意拳における「岳飛」創始者説、少林拳における「達磨」創始者説などがいい例である。

その点で、八卦掌が、そのルーツを「異人」としているのは、門に属していた者たちの謙虚さを感じる。有名な英雄でなく、無名の、存在すらも証明できない「異人」としているのであるから。しかしここにも、後代の人間が「伝説」を創ることができるように「含み」を持たせている。

異人とはおおよそ、説明できない者、証することができない者、出自がはっきりとしていない者、である場合が多い。それは裏を返せば、その人物を持ち出したところで、自分たちの流派・門派の権威付けに役立たない者、である。代表的な例が、「無名の庶民」である。

ある拳法創始者が、偶然に余興や交流のつもりで手合わせをした、全く無名の者の技法・クセから、大きなヒントを得ることもある。地域の子供と戯れている時や、技術レベルの低い者に教えている時、その学習者がふと見せるクセから、ヒントを得ることもある。偶然に見かけた動物の捕食・狩猟行動から、拳法のヒントを得る、などはよくある話しである。

転掌創始の事情を説明する者らは、創始者が武術を創るにあたって大きな助けとなった、ささいなきっかけ・ヒント・気づきを、「異人」というよくわからぬ人物・事象にあてがり、拳法・武術を創始するうえで最も苦労する「ルーツの説明」に変えてきたのではないか。

後述するが、「転掌」のルーツは、董先生が修めていた武術である(単換掌・双換掌を練ったうえで理解した術理より、刀術もしくは藤牌兵刀術と推測される)。その武術を、囮(おとり)護衛ができる武術に創りかえて宮中内での立身出世の道具としたのである。

弱き者でも王族を守ることができる武術、が生まれたのは、王族を心の底から守りたかったから生まれたのではない。そのような武術を創って王族に認められ、自分の身を立て、将来の安寧を得るために創られたのである。

そのような野心的な理由・誕生のきっかけを露骨に出すことは、その武術の権威性を高めるうえで望ましくない。そこで、「異人」というある意味神秘的で説明のつかない要素を盛り込んで、時代のニーズのような大きなキッカケによって生まれたものなのだと思わせる「権威性」・脈々と伝えられてきた武術であると思わせるような「伝統性」を加味したと思われる。

八卦掌の目的と、その目的を達成するための技術体系の中核はなにか。

転掌(八卦掌)の目的は「弱者が囮となって王族を護衛できること」

転掌の目的は、「清朝王族・王族寵姫らを囮護衛すること」である。

目的を把握することは大変重要である。目的が明確となれば、その武術の技術体系がわかるからである。

おおよそ合理性のある武術は、目的を達成するために、その技術体系が組まれている。技術体系は、目的を達成するための中間目標を実現させ、結果として「目的」が達成されるのだ。よって技術体系とは、兵学における「方策」に該当する。

まとめると

目的「清朝王族・王族寵姫らを囮護衛すること」←中間目標「移動し続け防御し、時に突然遅い、味方が来るまで一定時間敵を引きつけ囮(おとり)となること」←中間目標を実現する方策「移動遊撃戦、一定時間移動し続けるための移動継続持久力の向上、身の回りの物を振り回すことができる技術」

となる。

八卦陰陽理論によって転掌から八卦掌へと変遷していったのはいつごろからか

董海川先生の大弟子・程廷華師が、董先生の存命の頃より、その指導の多くを担っていたことは有名である。そのころから目的・技術体系が変わり始めたと考えられる。

晩年の董先生は、その風貌を見るに、恰幅良く描かれている。拳史の説く腕長・痩躯の面影はない。晩年は、移動遊撃戦の練習をすることが少なくなった可能性がある。

有名となり、多くの門下生が集ったため地位も形成され、移動遊撃戦で多人数相手に戦う必要がなくなり、かつ弟子が育ちその弟子が弟子自身の修めていた武術に即した技術で指導したため、董先生の転掌は、表舞台から徐々に消えていった。

程廷華師が育つ前の、董先生が直接あまたの弟子に教えていた頃にのみ、「転掌」は純粋に教えられていた。程師は稀代の名手である。彼の技法が、転掌に大きな変化をもたらしたことは、必然である。

董先生に直接指導を受けた草創期の弟子の一人が、北京から南方福建省に移住し、その地で転掌を伝播させた。私の十代中期の師である楊先生の楊家は、伝播された家の一つである。楊家の先祖が董先生の弟子であった可能性も考えられるが、それは楊先生が明確に否定しておられた。

福建省の田舎に伝えられた転掌は、北京で栄えた他の八卦掌流派と違い、他門派との技術交流もなく、原初の「転掌」の技術体系のままで現在まで伝えられ、縁あって水式門の代表・水野に伝わった。

八卦掌誕生から草創期、そして変遷への道のり

「転掌」の草創期

董海川先生が修めていた、藤牌兵(藤の盾と刀を持った最前衛歩兵)部隊で行われていた野戦刀術 + 宮中でおこなわれていた暗殺技術 + 董海川先生が習得していた武術(文安県に伝わる「八番掌」と言われているが、詳細不明)。

董先生は宦官であったため、宮中内において女官や宦官が使い得る武術を創出し、王族に売り込み、それが採用され、武術教官となって立身出世を果たした。王族に認められ、宮中宦官護衛を担った「転掌」は、その名を馳せる。

女官や宦官でも使用し得る武術を創った理由について、確証を伴った説はない。しかし、転掌が成立後まもなく王族に認められ有名となった点から、董先生が宮中内護衛武術として採用されることを目指して、採用され得る技術体系で創り、かつ売り込みをした、と考えられる。

これらが融合して、「転掌(てんしょう)」ができる

「転掌」の確立期

後退スライド撤退戦対敵身法である単換掌の術理から単換刀(転掌の試作段階)ができる。

単換刀は、過渡期の技法なので、転掌刀術に入っていない。

単換掌

武器を持たない手返しの良さを活かし、両手で穿掌を手返しよく打ち込む型となる。

双換掌

身体全体を使って刀を操る身法は、そのまま双換掌となり、清末転掌式八卦掌の各武器の基本身法となる。

単換掌の術理を発展させた主要転掌式(下搨掌・推掌・陰陽魚掌・托天掌)

このころは八卦陰陽理論などの影響は受けていないため、技数を「八」にするなど、8にこだわることはなかった。

前敵に対する術理→順勢掌ができる

斜め後方スライド撤退戦だけでは、刺客・侵入者に脅威でなく守るべき人に危害が及ぶため、護衛武術として採用されるために、前敵に対する身法を、斜め後方スライド身法を活かして創出した。この時点で護衛武術としての機能を満たし、間もなく清朝粛親王府にて宮中内御用武術として採用される。

転掌刀術0R遊身大刀 ※どちらが先かは不明である

双身槍術

単招式(順勢掌をより「勢」を殺させないように発展させたもの)

「転掌」から「八卦掌」への変遷期

八卦陰陽理論による修正で名前が「転掌」から「八卦掌」と呼ばれるようになる。

4つの主要転掌式が、八卦陰陽理論の関係で、技が追加され、8つとなり、「定式八掌」となる。

「老八掌」が生まれ、単換掌・順勢掌が老八掌の構成要素となる。

※単換掌・双換掌・背身掌(はいしんしょう)・劈手掌(へきしゅしょう)・順勢掌・順歩掌(じゅんぽしょう)・下搨掌(かとうしょう※定式八掌の下搨掌とは別物)・三穿掌

八卦掌の近代化の加速。程派八卦掌の劉徳寛が、形意拳の要素を採り入れ、八卦六十四掌を作り、それが八卦掌各派に伝わる。対一人・強者使用前提・他流試合想定の格闘技的八卦掌へと進む大きな契機となる。

清末転掌式八卦掌の技術体系

上記の八卦掌の目的と、その目的を達成するための技術体系の中核はなにか。で説明した通り、成立当時の技術体系を引き継ぐ清末転掌式八卦掌と、近代格闘術化した、近代格闘術八卦掌では、その目的が違うため、技術体系も根本から変わってくる。

ことに八卦掌における変遷は、目的から違うために、全く別物と言ってもいいくらいの違いがみられる。以下のスタイルの違いを示す表をよく見て欲しい。

修行の進んでない者にとっては、「斜め後方スライド撤退戦」と「前敵変則ステップ攻撃」は、戦い方の見た目は違えども、それほど大きな差異を生むものではないと思われるかもしれない。

しかし同じ門派内における両者の違いは、余りに大きくなりすぎている。これは、どちらが正しくてどちらが間違っている、ということではない。目的が変わると、同じ武術門派であっても、別の物に変わってしまうことを示した特殊な例なのである。

清朝末式八卦掌と近代格闘術八卦掌の違いの図

弱者生存の護衛護身武術を極めたい方へ~清王朝末期頃の昔日の八卦掌を国内で唯一伝える水野先生の道場「八卦掌水式門」入門方法

1.弱者生存第一の「単換掌の術理」に貫かれた成立当初(清王朝末期頃)のままの八卦掌を国内で唯一追求し指導する、稀代の八卦掌家

八卦掌水式門代表・水野の写真
八卦掌水式門代表・水野義人先生

八卦掌水式門で八卦掌第7代を掌継させていただいた遠隔地門下生のsと申します(先生の指示で仮称とさせていただきます)。代継弟子の一人として、八卦掌水式門の紹介をしたいと思います。

石川県・遠隔地門下生

八卦掌水式門は、成立当初(清王朝末期頃)の「単換掌の術理(単換掌理)」に貫かれた「生存第一スタイル」の八卦掌を指導する、国内で極めて数の少ない八卦掌伝統門です。

八卦掌第6代の水野先生の伝える八卦掌は、敵前変化攻防の近代スタイル八卦掌が主流となっている現代において、対多人数移動遊撃戦による弱者使用前提撤退戦を貫いた異色の存在となっています。

先生の伝える八卦掌の最大の特徴は、やっぱり、「単換掌の術理(水式門で先生は、「単換掌理」と呼んで指導しています)」に徹している点。

「単換掌理」とは、敵と接触を極力さけ、敵の力とぶつからない方向へ移動しながら対敵対応をする術理です。間合いを取り、逃げることを正当な戦法とし、力がぶつからないため、女性やお子さん・お年を召した方にとって最も現実的な護身術となっています(※よって水式門では、私を含め、女性の修了者さんが多いです)。

単換掌理を理解するには、修行の初期段階に、掌理に熟練した指導者による対面での練習を通して対敵イメージをしっかりと構築することが必要不可欠、だと先生は言います。

「単換掌理系の技は、対人走圏で養った移動による間合い取りと、敵の引きつけ引き込み技術、転身技術とで実行する技。現実的で明確な敵のイメージを持って練習しないと、実戦でとまどうことになる」は先生の口癖ですね。

相手の侵入してくる角度や強度、そして敵動作に対する自分の身体の使い方を、先生の技を受け、または先生に試し打ち(!)をしながら自ら身体を動かして学んでいく必要があります。それは初心者には果たせない役割。水式門では、先生がいつも相手をしてくれるし、新しい技を始動するとき、使い方もしっかりと見せてくれるから、一人の練習の時でも、イメージが残るんです。

よって最初から全く一人で行うことは、リアルな敵のイメージが分からない点から、大変難しいものとなります。この問題は、私がこの場で、先生の指導を受けたほうがといいと強くすすめる理由となっています。

私も遠隔地門下生。先生が富山に来たときは、集中的に相手になってもらいました。石川県という遠くであっても、先生の教え方のおかげで、ブレずにここまで来ることができました。

単換掌理に基づいた弱者生存第一の八卦掌を指導する八卦掌の教室は、全国にほとんどありません(それか、公にしていません)。弱者使用前提がゆえの現実的方法で自分を守る武術に興味がある方。力任せの攻撃にも負けない八卦掌を極めたいと思う方は、水式門の扉を叩いてください。水式門なら確実に、弱気が生き残るための技術を学ぶことができます

2.八卦掌水式門は、入門審査を通った者が門下生となることができる純然たる「伝統門」道場

八卦掌水式門代表・水野の写真
八卦掌水式門代表・水野義人先生

八卦掌水式門は、代表である水野先生が、八卦掌第5代(梁派八卦掌第4代伝人)である師より指導許可を受けて門を開いた、純然たる「伝統門」です。それゆえ、入門資格を満たしているかを判断する入門審査(問いあわせ~体験までの態度を見ての総合判断)を、入門希望者すべての方に例外なく行っております。もちろん私も受けたうえで入りました。

水野先生が指導する八卦掌は、護身術であれど、一部に当然殺傷技法が伝えられ、昔の中国拳法と同じく実戦色が強い八卦掌。誰それ構わず指導することはいたしません。

特に先生は、拳法を始めた動機も真剣。自分を律することができない人間に伝えてしまい、それで人が傷つけられてしまう事態を招くことを、心から心配しています。

よって、以下で掲げてある「入門資格」を満たした人間だと判断した場合にのみ、先生は受け継いだ技法をお伝えしています。「八卦掌の伝統門として、門が負うべき当然の義務と配慮」。これも先生が常に話す口癖ですね。

水式門には『弱者生存の理で貫かれた護衛護身術「八卦掌」を日本全国各所に広め、誰もが、大切な人・自分を守る技術を学ぶことができる環境を創る』という揺るぎない理念があります。

先ほども触れたように、己を律することのできない人間に伝えてしまうことは、技法が濫用され第三者が傷つく事態を招き、理念実現に真っ向から反する結果を生んでしまいます。

水野先生は、門入口を無条件に開放して指導し門を大きくすることより、たとえ審査を設けて応募を敬遠されたとしても、少なからずいる暴力的・非常識な人間に伝わってしまう事態を避けることを重視しています。

ここまで書くと、なかなか入ることのできない難しい道場だと思うかもしれませんが、そんなことはありません。審査はありますが、一般的な常識と礼節、思いやりがあれば、心配する必要は全くありません

指導を受けてみれば分かるのですが、先生はいつも、門下生のことを考え、熱心に指導してくれ、怒鳴ったりもなく、笑顔です。安心してください(無礼な態度や乱暴なふるまいには、ベテラン・初心者関係なく厳しいですが)。

審査を通過した正式門下生には、「誰もが大切な人、自分を守ることができる八卦掌」の全てを、丁寧に、熱心に。真剣に教えてくれます

迷ってるあなた。水式門には、積み重ねるならば、弱者と言われる者でも高みに達することができる技術体系があります。先生の温かく熱心な指導で、「守る」強さを手にしてみませんか。

3.入門手続き

八卦掌水式門の正式門下生となるためには、個別指導科における近代八卦掌コースを除いたすべての科において、仮入門期間(体験入門日から一カ月経過もしくは体験入門を含めた3回の練習参加)を経る必要があります(指導内容が他人を傷つける技術を含むため)。この期間を経過した後、入門を希望する方は、以下の手続きに従い、入門申請をしてください。

手順1 申込フォーム記載申請と体験入門参加

各科とも以下の問い合わせフォームに必要事項を記載のうえ体験入門を申請する。

手順2 本入門希望者は、「本入門申請フォーム」より、本入門申請をする

体験入門を含めた仮入門期間経過後、本入門を希望する方は、各科共通の 本入門申請フォーム より、本入門申請をしてください。本入門を認めるかどうかの判断をさせていただきます。

「入門資格・入門時誓約事項・入門時特記事項」については、こちら にて必ず目を通し、理解したうえで本入門申請をすること。

「入門資格・入門時誓約事項・入門時特記事項」

本入門申請意思受領後、本入門審査を経て、結果のメールを送信します。本入門許可者には、入門案内のメ―ルを送信しますので、メール文中に記載されている弊門指定の銀行口座に初月指導料を振り込んでください。

※入門許可メール送信後、送信日を含めて14日以内に入金がない場合は、入門の意思がなくなったと判断し、申請はなかったものとさせていただきます。

※本入門が許可されなかった場合についてのクレーム・理由開示要求には、例外なく対応いたしませんのでご了承ください。

手順3 「入門誓約書」のダウンロード

下のリンクにて「入門誓約書」をダウンロードし、内容を確認。誓約書の内容に同意するならば、同書類を印刷し、必要事項を記載の上、本入門後の初回練習時に持参する。

「入門誓約書」のダウンロード

※ダウンロードができない方は、shiroikukmoajisai@gmail.com 宛にご連絡ください。

手順4 練習会に初参加

上記「入門誓約書」を持参の上、グーグルカレンダー記載の希望各科の練習会に参加する。

※「入門誓約書」を必ず持参すること。持参し忘れ2回目の者には例外なく指導しない。ダウンロードができなかった理由で持参出来なかった者は、必ずそのむねを告げること。

※カレンダーが、参加する科のカレンダーであるかどうかを、しっかりと確認すること。

※各科とも、参加希望日の前日の24時までに、に、参加メール「例文:○○です。○○日参加します」とメールを入れること(場所変更の可能性があるため)。

八卦掌水式門富山本科イメージ